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にんげんほいく

2012年3月に長男が学童保育からも卒所した時の日記です。当時父である私は学童保育の保護者会の会長をやったりして長男自身と時間を取る事はあまり出来ていなかったと思います。すでに大学3年生の長男は、その後高校生になった時から現在まで彼自身が過ごしたその学童保育所で当時保育をしてもらった学童指導員(いまは学童保育支援員と呼ぶ)と肩を並べてアルバイトをしています。大学生となった今でも人間として仕事として学童保育で成長させてもらっている。学童保育は彼にとって大切な稀有な場所なのでしょう。感謝しかないですね。

ーーー以下2012年3月当時の日記本文ですーーーーーーーーーーー

卒業した長男がもうすぐ学童保育からも卒所します。

一年生の4月~六年生の三月まで。
親子ともども本当の意味でまるまる六年間育ててもらった場所です。
学童がなければ彼は小学校すらまともに通えていなかったはずです。
自分自身も親、というか本当の意味での大人になりきれていなかったはずです。
まあ今も子どもじみた部分はあるのですが。。。

毎日学校行きたくなくて、でも学童は行きたくて、「学校行かないと学童行けないでしょ」って言って一年生のときは、泣く泣く毎朝学校に通学してました。

しかし学童も楽しいことばかりではありません。
子ども社会でも理不尽なことは多々あります。
それでも周りの力を借りながら、彼なりに頑張ったことはものすごく貴重なことだろうと思います。

今では六年生で学童に通う子みんなそれぞれに認め合い、仲が良いですが、最初からずっとそうだった訳ではありません。いろんな体験を通して他者の気持ちを汲んでいくこと、他者に自分の気持ちを汲んでもらうことを学んだ結果なんだろうなあと思います。

と同時にそれらを通して親も多くを学びました。

学童だからって子どもだけが成長する場ではありません。

多くの大人は他者から、自分以外の大人はもちろん、とくに自分の子ども以外の子どもから何かを学ぼうとしません。

無意識に、にんげんに序列をつける社会に浸かってきたから自分より子どもを下にみる、という考えもしょうがありません。わが子だけ溺愛で、よその子より自分の子、という気持ちもわかります。
弱者や常識を決めて保身をしないと自分が壊れてしまうような社会なのもわかります。

しかし、このまま大人が他者から学ばなかったら社会は先は見えているような気がします。

せめて学童に通っていた子どもが大人になったときに「他者から学び続けるにんげん」であって欲しいと思います。

周りからは「そんなこと言ってもさあ」「どうせ無理だよ」「お前馬鹿じゃないの」「子どもみたいなこと言って、それじゃ食べていけないよ」って言われても、触れ合い、喧嘩しあい、学びあうことで本質に近づき、仲間と生き続けていけるにんげんでいて欲しいと思います。

そこに関わる全てのにんげんがずっと成長し合える。

その他の子どもにかかわる各種団体組織と違う、
学童保育とは、そんな「にんげんほいく」の場所なのだと、今は良くわかります。

青臭い考えだと自分でも思いますが、実体験から学んだことです。
何らかの真理を含んでいると思います。

大人が歩みを止めたら駄目です。

関わり方は何でも良いんです。時間や回数でもない。
ただ学ぶ気持ちがなければ何の意味もない。
音符通りに自分の楽器パートをただ演奏したからって誰の心にも響きません。
自分の心にさえも。

次男が卒所するまであと三年あります。
三年間でまた親子で何かを感じ取れれば良いなあ、と思います。

本日学童は電車&バスで遊園地へお出かけ保育。
長男や六年生にとっては学童さいごのお出かけです。

指導員の他に保護者が二名付き添いで同行してくれています。
本当に感謝です。
ありがとうございます。

またそういう学童をつくってきてくれた先輩保護者の方にも感謝ですね。。。

学童が、ダッシュで学童!な気分で親子が集える場所にできれば良いなあ、と思います。

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