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「1991年の日本をバイクで日本一周した日記と2021年の後記」 …を書き始める前の前記、あるいは最初の一歩を踏み出す話。 ~その3~


そうこうしているうちに守ってもらっていた自由な時間、学生生活も終わりへのカウントダウン。
就職するのか、さらに学生生活を続けるのか、決断しないと。
当時の高専の卒業生はほぼ就職する状況だった。
時代もバブル真っ盛り。人材はいくらでも必要な時代。
僕はといえば、映画製作の世界に憧れていたので「日本映画学校」に入学したかった。だけれども実家はそこまでお金があるわけでもなく、自分で稼ぎなら通学する覚悟もなく。だから就職してお金をためて映画学校に入ろう、ってことで自分のモヤモヤを一時心の中に収めてみたりした。

高専を卒業して四月から京都本社の会社に採用され就職した。
会社なんて面白くもないだろう、と思って入社してみたがコレがすこぶる面白い!
仕事が面白かったわけではない。新人だから仕事なんて新人研修くらいでつまらなかった。だが、同期の奴らがみんなすこぶる面白い奴ばかりだったのだ。

京都の社員寮で過ごす事になったのだが、つまらないと思った事が一度も無かった。同期の出身地は、京都はもちろん、奈良、大阪、兵庫、高知、香川、福岡、とにかく関西本社企業だったからか関西中心でみんな話しが上手い!そんな中でも群馬出身の自分は何故かみんなから良くしてもらっていた。週末には飲みに連れ出してくれたり、温泉ドライブやバーベキュー、映画、何かしら遊びに連れ出してくれた。良い想い出しか無い。何人かは群馬の実家に泊まりに来たり、結婚後に新居に遊び来たり。しばらくは交際が続いていた。それくらい楽しかった。今考えると、関東の自分が関西の人間と初めて親しくなった瞬間は、関西の彼等にとっても関東の人間と初めて親しくなった瞬間だったはずだ。そりゃ、楽しいはずだわ。全然違う出自の人間同士が出会う瞬間。それが大勢集まる瞬間。不安と期待が入り交じる瞬間。
そういう瞬間って凄いエネルギーが産まれるんだろうなあ。
だから楽しかったのか。
そして異世界異文化の初対面の人同士でコミュケーションとるのが苦ではなく、どっちか言ったら案外好きだ。30数年経って今頃自分の特徴に気づいた!

しかし配属先が決まると僕の楽しい京都生活は強制的に終了になる。
配属先は群馬県。なんと約二ヶ月で帰郷だ…

帰郷後は平穏無事に過ぎていく。
仕事も良い上司の方に恵まれて、生意気な僕でも丁寧に接してくださった。感謝しか無い。
でもね、京都にいたときのような楽しさは皆無だった。
同世代の同期も数名一緒に配属されたが、ほぼ地元の人間だった。みんな大卒か院卒だったから少しお兄さんで落ち着いて常識的だった。だから甘えさせてもらっていた事もあるが、楽しくはなかった。在職中にストレスで少し体調を崩したり。ストレスで体調を崩したことなんて人生初だった。少しショックだった。自分は、もっと図太い人間だと思っていたから。
入社1年で早々に退職したくなってしまった。
貯金すら出来ていないじゃんか。映画学校どころじゃない。
確か2年目に入ったあたりで上司に「退職したい」、と相談をした。

~その4~へつづく!

https://note.com/kasutaro/n/n0c41feaccd37

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