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答え合わせは、死ぬときに。

「転職」のテーマを目にして、絶賛辞書ブームである私はまず辞書を引いた。

転職
職業をかえること。「農業にーする・ー活動」
(三省堂国語辞典 第八版)

想像よりだいぶゆるく、そして短い。これじゃあ数えられない。履歴書の職歴欄にいつも頭を悩ませる私の転職回数は結局何回なんだろう。

看護師を志して国立四年生大学に進学したものの、1年目にしてナイチンゲールとの方向性の違いに戸惑った。言ってることはわかる、が気が合わない。

学年が進んでももやもやが晴れず、実習を経て「やっぱ違うわ」と思うようになり、私のなかで看護師になる選択肢はほとんどなくなっていた。

看護師の就職活動は一般と時期が違い、大学4年の夏頃に行われる。なにせ圧倒的な人手不足なので、数多ある求人のなかから自分が行きたい病院を選んで説明会に行き、面接を受ける。で、ほぼ受かる。超シンプル。

そうすれば確実に就職できるとわかっていたが、私はそうしなかった。だって「なんか違う」から。「なんか違う」けれど「じゃあなんなのか」と聞かれると答えがなく、答えが出ないまま年が明けて春になった。

納得しないと進めない私に「とりあえず就職する」なんて考えはなかった。そうして私はフリーターになった。

社会人1年目、自由

とりあえず就職したくないとはいっても生きていくにはお金がかかる。一人暮らしを続けるつもりだったので、生活のために「やりたい」と思えるバイトを探した。

まず始めたのが家庭教師。勉強はするのも教えるのも好きだった。中学3年生と高校3年生の受験生二人を担当した。成績が上がるのが数字で見えるのがモチベーションになった。

昼間にも何かしようと思い市の広報誌で見つけた特別支援学校の求人に応募した。幸い看護師資格は取れていたので、非常勤看護師として採用になり学校勤務が始まった。教育いいなぁ、養護教諭を取って教員採用試験を受けよう。そう思っていたので、養護教諭のすぐそばで働けるのは面白く刺激にもなった。

ただそれも非常勤だったのでまだ時間がある。なんてったって一人暮らしは暇だ。たまたま通りかかった家から2分の麺処でアルバイト募集の張り紙を見つけ、近いしおいしそうだし時間帯もちょうどいいと応募した。

この3つを掛け持ちし、忙しい毎日が始まった。とても楽しかった。新しく勉強しがいがあり体力も使った。もともと物欲がほとんどなかったため生活には事足りた。連休をとって一人で海外旅行もした。

忙しく働いて稼いだお金で食べ、遊び、暮らす。生きてるって感じ。自分でなんとかするしかない状況でなんとかした結果、強く生きる自信を得たのだった。

社会人2年目、違和感

1年後の春、臨時講師として定時制高校への勤務が決まり、フリーター生活は終了する。晴れて養護教諭として採用となった。

勉強はコツコツしてきたし、生徒とのコミュニケーションは楽しいし、Excelも普通には使えて頼られた。ただ、社会を知らなさすぎた。

これまで自分一人で働いて生きてきた弊害が、あちらこちらに。社会人らしい綺麗めな格好をして社会人らしいふるまいをしなければいけないとか。教師には立場があるからお局先生には媚を売らなければいけないとか。知らなさすぎて、自分を貫きすぎた。

今思えば恥ずかしいことこの上ない「先生」だった。仕事や人や待遇はよかったが、次第に保守的な組織に違和感を覚えるようになる。と同時に、自分の立場ではこの大きすぎる組織を変えられないとも気づいた。

そしてやっぱり納得しないと続けられない私は1年で職を変えることになる。生きる自信を得てしまったがゆえの、安定を微塵も求めない私。そして自由こそ正義と疑わなかったがゆえの、自分以外には無責任な私だった。それでもどうしても、自分を貫きたかったのだ。

社会人3年目、波乱

学校に勤務しながら転職活動に勤しみ、春には治験コーディネーター(CRC)としての病院勤務が始まった。

新しさ、勉強のしがい、人、仕事らしさなんかが選んだポイントだったように思う。現実は「配属」でやってきた。

同じ会社に属するCRCでも、配属されるグループ、担当する病院、担当する治験、そして何より教育担当によりその業務負担はピンキリである。私はなかでもまぁ忙しく、教育のきょの字もない現場に配属になった。

納得しないと進めないのに納得する説明も勉強する時間もなく、よくわからんままに見様見真似で走り回ってミスをして怒られてまた一人で現場に放り込まれる。残業代は出ず代わりの休みもなく食事中の会話もない。

小さなクリニックでのんびり仕事をこなし教育を受け定時に帰宅する同期を羨ましく思った。なんなの、運なの。

自分らしくも人間らしくも生きられなくなり、あっという間に心と体を壊した。カウンセリングを受けても薬を飲んでも全くよくならなかった。次第に出歩くのが怖くなり、電車に乗れなくなり、靴を履けず、布団から出られなくなった。思ったほど自分は強くないようだった。

CRCになって半年、どうしようもなくなって退職した。

社会人3年目、リベンジ

2ヶ月ほど休息をとった。家にこもりながら、少しずつリベンジに向けて転職活動を始めた。今度はエージェントは使わず、自分の手で調べることにした。

ここと決めた1社だけ面接を受けた。「自分を大事にしたいからです」志望理由はこれだった。自分を大事にできないなら働く意味がないから。自分を大事にできると思ったから応募した。

アルバイトからの採用となったが、児童発達支援(療育)の指導員としての勤務が始まった。

学ぶ、教える、成長が見える。やっぱり教育は楽しい、難しくて面白い。時折、前職で負った傷が私を後ろ向きにさせることがあったが、今度は周りのサポートが得られた。

教室ごとに運営方針や文化があったが、自分の働きで変えられない規模ではなかった。毎日必ず1時間休憩をとり、定時ぴったりに帰る。ちょっと大げさなぐらいに「定時です!帰ります!」と宣言して帰り続けていたら、同僚たちも競って定時退社を目指すようになり、エリアで最も残業が少ない教室になった。

仕事も人も環境もとてもよかった。ただ、どうも納得しないと進めない完璧主義な自分は、真面目で、頑張りすぎる傾向にあった。頼られ、期待され、応えようと頑張った。頑張りすぎてまた、折れてしまった。

どうも心を病む素質があるらしい。気がつくと泣いていて、何も考えられなくなり、やっぱり行けなくなってしまった。何がいけないんだろう。強くない、それだけじゃないと思い始めた。

社会人5年目、マイペース

2年半勤めた前職を辞め、もう正社員にはなるまいと心に決めた。5年かけてやっと自分がわかってきた。

いい会社、組織、人、仕事に出会っても、きっと私は頑張りすぎて病んでしまう。病んだ自分を責めて焦って余計にしんどくなってしまう。ならばどうするか。日常的に、もしくは病んだときに、自分で自分をケアできる余裕を持つ。

自分のペースを守るためには正社員は向いていない。週に2日や3日しか働けないときもきっとある。生活も仕事もそのときどきで配分して自分をコントロールできるようになろう。

そうして私はフリーランスになった。

手塩にかけて育て国立大学に行かせた娘が、新卒フリーター。1年遅れでまともに就職したと思えばからっきし続かず職を転々とし、落ち着いたのは安定とは程遠い自由業。

普通に就職して普通に働いていればそれなりのお給料と生活が手に入っていたであろう歳である。何がいけなかったのか、出だしか?性格か?運か?こんな娘で申し訳ない、情けない。でもこれが私だ。

「もしも」を考えないことはない。「これでよかった」と言えるのは何十年も先、老後とか、死ぬ間際かもしれない。でも、今生きてるし、泣いてないし、楽しいことだってある。

だからこれが、今の正解。これからの私に、乞うご期待。

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