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自分の無能さに打ちひしがれたらー「僕は自分が思っていたほど頭が良くなかった」ー

なにかやっていると、自分が無能で馬鹿でどうしようもない、何もかも辞めたい、と打ちのめされることってありますよね。私もこの留学中何度も声を出してエンエン泣きました。実話。あまりにも自分が馬鹿すぎて、理解できないことがいっぱいありすぎて。周りはそりゃあもう頭のいい人達ばかりだし、英語だってみんな私よりうまいから理解度の違いが明らかで、私だけバカみたいで、もう死にたい…と思ってました。

そういうとき、もちろんこれまでの仕事でも大小、いっぱい打ちのめされることはあって。そういうときに何度も何度も読みに行くブログエントリがあります。(この記事は超長いので、お時間のあるときにどうぞ)

英語圏の巨大掲示板サイトRedditの’告白スレッド’に投稿された高校生の「I'm not as smart as I thought I was.」という告白と賢者からの回答が和訳されたものです。この投稿者はかなりいじけて打ちひしがれています。

最近、SAT (大学進学適性試験)を受けたら1900台のスコアでした。ただ単に怠けていたからこの結果だけど、本気を出したらもっと全然すごいスコアがとれるはずと考えました。なので、その後もう一度受けてみました。よく出来た感触はありましたが、結果は前回よりたった約40点よかっただけでした。
昔は、自分はMITに行けるものだといつも思っていました。でも、その可能性はゼロに等しいんだという厳しい現実が明らかになってしまいました。たぶん親元を離れずに地元のつまらない大学にいくことになるんだろう、と今になって悟りました。あぁ。

MITとは、アメリカの超一流有名理系大学マサチューセッツ工科大学のことです。つまり、この投稿者はやる気出せばMITに行けるくらいには自分を頭がいいと思っていたわけですが、それがどうも違うのではと気づいてしまってしょげているのです。

あーそれに、僕の趣味といえばゲームとRedditだけなんです。クラブ活動とかも全くしてないし。車の免許さえ持ってない。終わってる。まぁ、これは僕の知性とはなんの関係もないことですが。。。ただの愚痴です。

と自分の知性とは関係のないことまで引き合いに出して愚痴るほどいじけています。そして、自分の知性とは関係ないと言いつつも自分の知性そのものを諦めかけているようにも見えます。そこにReddit賢者(Redditは普段攻撃的な言葉も飛び交う混沌とした場所ですが、たまに賢者が現れてものすごく有益なことをわかりやすくまとめて去っていったりする場所でもありますす。)が現れてこう言葉をかけます。

君の抱えている問題は入試云々よりも遥かに大きなものです

入学試験に関する標準的なアドバイスから書き始めるつもりでした。(例えば、SATのスコアは大した問題じゃないよ、とか。)そんなアドバイスもありでしょう。しかし君の抱えている問題は入試云々よりも遥かに大きなものです。君が遭遇しているのと同じ問題に同級生たちがぶつかるのを私は何度となくみてきました。もし昔の記憶をここに再現できるなら、新入生の頃の私を君にみせてあげたい。

賢者は「君の抱えている問題は入試云々よりも遥かに大きなものです」とまあある意味どこにでもありそうな「特別だと思っていた自分が超平凡だった」という悩みに対して、静かに語りかけます。

私は意気揚々とMITの寮に引っ越してきました。とりあえずMITに入学したのです。(中略)
時間が経ち、壁にぶち当たりました。私は高校時代それほどよい生徒ではありませんでした。悪い成績をとれば、適当ないいわけをしたものです。(中略)いい成績をとれば、エゴが満たされました。自分はちょっとやる気がないだけで、他の誰よりも頭がいいんだと思えました。しかしいまや、そんな考え方は通用しませんでした。私はそれまでMITを全く見くびっていたのです。ほんとうに惨めな気持ちでした。

なんと賢者はMIT卒業生。ここで一気に賢者度が跳ね上がります。しかしながらこの賢者もMITの勉強についていけず、かなり惨めな気持ちになったことがあるようです。

幸運なことに、私のとなりの部屋にはRという賢いやつが住んでいました。Rは、控えめに言っても、優秀な学生でした。彼は2年生でしたが、学部で最も進んだ数学のクラスにすでに出席していました。(中略)そしてなにより、彼は魅力的で、やる気があって、社交的でした。人間なら1つや2つあるだろう欠点もこれといってありませんでした。

満を持してのRの登場です。Rは2年生にしてMITの数学を取りまくっている超優秀な学生でしかも性格もいい。魅力的です。モテそうです。

微分方程式に半学期悩まされたあと、プライドを捨ててようやくRのところへ助けを求めに行きました。確か彼は(中略)、私の分からないところをひとつひとつ丁寧に解説して教えてくれました。その結果、学期末に私はB+をとり難を逃れることができました。ここでひとつ大切なことがあります。それは、彼が教えてくれたことのなかに、頭の回転が速くなければ理解できないことなどひとつもなかったということです。

惨めな気持ちになり、打ちひしがれてどうしようもなくなってようやく賢者はRを頼ります。Rは丁寧にわかるように賢者に数学を教えてくれます。Rだっていそがしいはずなのに、性格の良さがにじみ出ます。そして賢者は気づきます。Rが特別な天才ではないことに。

彼の知性と実績のほとんどは、まさに勉強と鍛錬によってもたらされているということでした。そして、必要に応じて学んで訓練をした知性の道具や数学の道具を蓄積した結果として、彼の大きな道具箱があるのだと知りました。

「頭がいい」ことが成績の良し悪しを決めるのだと言って自分自身を欺くのは簡単なことです。

Rから学んだことから賢者は高校生に語りかけます。

「頭がいい」ことが成績の良し悪しを決めるのだと言って自分自身を欺くのは簡単なことです。とても多くの場合で、これはあり得るなかで最も安易な説明です。なぜなら、これを認めれば努力をする必要もありませんし、自分の失敗をただちに正当化してくれるからです。

賢者は目の前にある困難を乗り越えられないのを頭の良し悪しつまり自分の能力のせいだ、とするのは安易すぎる正当化だと言います。厳しい、でも勇気が湧く考え方だと思いませんか?

MITの卒業率は97%です。(中略)3%の卒業できない人とその他の卒業できる人を分けるものがなんだか分かりますか?私には分かります。(中略)MITを卒業するのに失敗する人というのは、入学して、いままでに経験したなによりも難しい問題に遭遇し、助けを求める方法も問題と格闘する方法も知らないために燃え尽きてしまうのです。うまくやる学生はそういう困難にぶつかったとき、自分の力不足と馬鹿さ加減に滅入る気持ちと闘い、山のふもとで小さな歩みを始めます。彼らは、自分が力不足であると分かっているので助けを求めます。彼らは知性の欠如ではなく、やる気の欠如が問題だと考えます。

MITに入学するような世界のエリートでさえ「自分の力不足と馬鹿さ加減に滅入る気持ちと闘」うんですよ。私は頭をガーンとやられたような気持ちになりました。学業で成果を出し続けているように見える人たちでも、そういう気持ちになるんだ、私が人より劣っているからではなくて、自分の知らないことに対峙したとき、人は誰でもそういう気持ちになりうるんだ、と目からウロコがポロポロ落ちました。

燃え尽きることにするかしないかを決断する岐路に立っているのです

「頭がよい」というのは単に、「とても多くの時間と汗を費やしたので、難なくやっているようにみえるまでになった」ということを言い換えているに過ぎないからです。君は(中略)、燃え尽きることにするかしないかを決断する岐路に立っているのです。これが決断であるということを認めるのは怖いことです。なぜならそれは、君にはなにかをする責任があるということですから。でも、それは力が湧いてくる考え方でもあります。君にできるなにかがあるということですから。

私はこの最後の段落を読むと、いつでも目から汗がにじみ出てきます。自分には能力がないから、という諦めはあくまでも自分の決断であって、それには常に全く逆の「諦めない」もしくは「能力が足りないかもしれないけどトライしてみる」という選択肢があることを示しているわけです。

できないこと、想定してなかったことで失敗してしまうこと、何歳になってもそのことと向き合うのは大変なことです。自分の出来なさを認めるのは辛いことです。それってなぜだと思いますか?自分で自分をどこかで「私はできる(できた)はずなのに」って思ってるからです。結構謙虚ではない考え方ですよね。
「あのとき〇〇しなかった私はなんてバカなんだ」というのは「私ならあのときに〇〇できていたはずなのに」と同じ意味です。本当に自分をバカだと思っていたら、自分がバカだと周囲にバレることにそんなに傷ついたり怯えたり怖がったりしないはずです。結局ええかっこしいなんですよ。本当は他の人にバカだ、能力がないと思われたくないし、自分でも認めたくない。けど、「自分の力不足と馬鹿さ加減に滅入る気持ちと闘」わず、自分をバカだ能力がないと言っておけばもし失敗しても全部そのせいにできる。色々矛盾してますよね。

それでも

もうこの際いっぺん自分のことをバカだし無知だし、能力がない、と認めてみたらどうでしょうか。そして、大切なことは「それでも」と思うことです。私はいつも滅入ると、”私はバカだけど、それでも、できることがある。”と思うようにしています。朝起きて会社に行けるし、一日会社で椅子に座っていられるし、ネットで検索できるし、こんなに長いブログの文章を読んで理解できるし書けるし、洗濯も掃除もできる。先輩の言っていることを理解できるし、挨拶もお礼もできる。できること、ありますよね。まずはできることをしましょう。これはできること?と自分に問いかけましょう。
そしてもう一つ「できないことはいつかはできるようになる」。これは本当です。できないことが目の前にあるときに、「いつかはできるようになる」と思ってみるんです。そんなにすぐに白黒つけなくてもいい。今はできないけれど、できるようになっている途中だ、と思うようにします。できないことに対してうろたえず、焦らず、気長に付き合うぞ、と肚をくくります。肚をくくってしまえば、できるようになる日は思ったよりも早くやってきます。

そして、自分の目の前のやるべきことを一個一個片付けましょう。まずはできることから。そして今の段階でできないことについてはどうすれば良いのでしょうか。賢者はこう回答を締めくくりました。

it's empowering because it means there is something you can do about it.
So do it. 
さぁ、やってごらん。

それではまた。(ぜひリンク先の全文を読んでください。)

追記:Rが何故快く賢者を助けたのか、そして賢者も下級生を助けたのか、それは彼らができない事に対し真摯に向き合い、打ちのめされつつも、道具を磨くことがどれだけ大変で人の助けがいることか知っているからです。そして自分自身が誰かに助けられてきたからです。自分から見て「自分には手の届かないほどすごい」と感じる人でも、多くが同じように苦しみもがいた末、誰かに助けられた経験があり、いつか人を助けられるときは恩返しをしたいと感じているのではないかと思います。今もがいている人は、思い切って誰かに助けを求めてください。思ったよりも多くの人が優しく助けてくれると思います。
このメッセージは安易に「努力不足、自己責任」といっているわけではないし、どんな時も逃げるな立ち向かえと言っているわけではなく、必要なときは助けを求め、能力原理主義からもう一歩足を踏み出してみませんか、という提案です。この文を読んで追い詰められるような気がする人は、まずはゆっくり休んでくださいね。

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