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イジってみればいいんじゃねえの

こんばんは、澄田杏です。

ちょうど先日オードリーの若林正恭さんがnoteを始められましたね。私もオードリーさんの番組などをよく見るのですが、よく出演者の方などを「イジる」場面が、オードリーさんに限らず多くの芸能人の方で見られます。芸能人の方でなくても日常的に親しい友人を「イジる」場面はよくありますよね。イジりで笑いが生まれたり、何となく楽しくなったりするのは何故なのでしょう。イジりが生まれる関係性に何となく安心感を感じたり、そんな番組を何度も見たくなったりするのは何故でしょう。そんな安心感を自分で作り出せないものか…?

「イジる」ということの裏には「共有的認知の知覚」があるのではないかと考えます。つまり、イジる相手と自分との間に「言わなくてもわかる」何かが隠れているということです。「言わなくてもわかる」関係性というのは相当仲が良かったり信頼していたりしないと築けないものです。
つまり何が言いたいか、イジるということの裏には相手と自分との間の関係が成熟しているからこそ生まれる、「相手は私をディスっているけどそれは私が本当に嫌いなんではなくて揶揄いの気持ちからなんだ」という隠れた了解が裏にあるのだと思います。そして、それによって示された成熟した関係性を改めて確認することでほっこりとした感覚が生まれるのだと思います。これほど高度な構造の「共有的認知の知覚」を持つものはあまりないのではないでしょうか。

出会った人は最終的にイジりイジられる関係を目指してみればいいのかもしれません。時間が経つごとに「これくらいのイジりはいけるかな?」というポイントを見つけてちょっとずつ攻めていこうと思います。意外と「当たり障りのない」関係性を築こうとする方は多いと思いますが、その壁を破った先には大きな幸せ感があるのではないでしょうか。

しかしたぶんただ相手をディスればいいわけではないと思うのです。どういうふうにやっていけばいいのか、この後の投稿でお話したいと思います

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