少年ジャンプ初代編集長 長野規まとめ
知れば偉大。少年ジャンプ初代編集長とは、長野規(ながのただす)さん!
週刊少年ジャンプ・初代編集長・長野規(ながの ただす)とは、ジャンプを創刊し。アンケート主義・共通スローガン・漫画家の専属制度などにより礎を作った人物。
ジャンプといえば読者アンケート
読者アンケート、それは少年ブック時代の長野の戦争に対する思いから始まった。
「戦争で家族を失った子供もいるのに……」
当時の漫画雑誌は、戦争はもうこりごりだという世論がありながら、安易に「売れるから」という理由で、戦争兵器のグラビアが描かれていた。長野自身が戦争で家や友人を失い、従軍もしているため強く疑問を感じた。
「戦争調査」という名のもとアンケートを開始
都内の4・5年生を対象にアンケートを実施。メカニックに多大な関心を持っているものの、戦争の悲惨さと平和の大切はよくわかっていた。
作り手の考えが安易なのではないか。
売れることではなく、責任を持つことこそ大切なのではないか……。
少年ブックで、望月三起也 『ケネディ騎士団(ナイツ)』がヒット
ケネディが日本に少年平和部隊を作る話。
長野は成功から学んだ。
「編集者は読者の顔が見えないといけない。頭の中も胸の底も、いやサイフやポケットの中身も見えなくてはつとまらない!!」
本格的アンケートを実施
アンケートはイメージ調査とし、質問に対し50の言葉から適切な一つを選び出すもの。
サンプル数は2000件ほどだったと思われる。
その中で多くの答えが重なったものが3つあった。
ここから全ての漫画はこの3つの言葉、できれば3つ、最低でもひとつはいれる、という方針が決まった。これが共通スローガンの誕生である。
策士・長野
プロ野球・読売巨人軍と契約
選手を漫画や、表紙グラビアに出す。
手塚治虫『ビッグX』をテレビ放映と同時発行
労働運動に対抗
会社内での左翼活動には厳しく抵抗。
このころ加藤恒雄によるケネディナイツ批判(言葉の言い回しがおかしいなど)が起こった。
感化された新人編集の一部を解雇する。
後にも
集英社で臨時雇用者組合が結成された際、組合活動に圧力をかけ、委員長を務めたたフリー編集者・遠崎史朗(後の『アストロ球団』原作者)を辞職に追い込むことがあった。
加藤の批判に傷ついていた長野は、まだ彼の指摘(文法の誤り)を気にしていた。
「そんなことを気にしなければならないなら、もう堅苦しい文章は載せない。全部漫画、全部読みきり、新しい漫画新幹線だ!」
長野は新しいマンガ雑誌の創刊を決意する。
漫画新幹線「少年ジャンプ」の準備
しかし人気漫画家が軒並みのってこない。
手塚はビッグXで無理を言いすぎ、険悪になった。
横山光輝とは縁がない。
さいとうたかおは手ごたえがない。
ちばてつやも忙しくてダメ。
小島功にも断られ、
川崎のぼるとの交渉も難航していた。
マンガ家の面倒見がいい中野祐介(後の2代目編集長)は「こうなったら人気漫画家をアテにしないで、新人で勝負しましょう」と提案。
新人漫画家の多くは、ぼろぼろの生活の中、飢えて暮らしていた。
そこに、感情の激しい長野と涙もろい中野のコンビが、「飯を食わせてやろう」と口説いてまわった。
当時の本宮ひろしも桃の缶詰を兄弟で分け合って食べるほどまずしかったそうだ。
しかし彼らにはペンにかける執念があった。
そしてついに、昭和43年(1968年)7月11日
少年ジャンプ創刊!
ジャンプ 105,000部
マガジン 844,000部
サンデー 691,000部
キング 427,000部
アンケート主義の徹底
ジャンプは雑誌に懸賞付きアンケートをはさみ、いくつかの設問を同時に集計する、クロス集計という方法を使う。
「何を知りたいのか」の追求
読者から何を得られるのか、編集者が強い欲求を持って自ら集計することで理解深く見ることが出来る。
最初の100通を速報として特別扱いにして、大体1000通きていた。
その手法は他からの意見を寄せ付けないものになっていったため、当初から内部からの反発があった。
本宮ひろしの消失
突然人気漫画家、本宮ひろしが失踪する。
発見後、喫茶「ハトポッポ」で面会する。
人気漫画のプレッシャーのあまり逃げて鉄工所で働いていたらしい。
他にも失踪する漫画家は少なくない。自信を失ってしまうことも。
その後、本宮ひろしの不安をなだめるためもあって専属契約(最初の雑誌と漫画家の専属契約)を結ぶ。
はだしのゲン
1972年、漫画家自伝企画の第1弾として中沢啓治の『おれは見た』が掲載される。それをたたき台として、1973年25号から連載が始まった。中沢は自分の思いを完全に伝えるため、アシスタントを一切使わずすべて自分で描き上げた。
ジャンプはアンケート主義、すなわち読者アンケートの結果が悪い状態が続けば即打ち切りだったが、『はだしのゲン』は一定の人気は保っていたものの、当時の受けはあまり良いものとは言えなかった。
しかし長野は自らアンケート至上主義を打ち立てながらも、中沢が望めば紙面を割くなどして全面的にバックアップ。
1年以上の連載を続けることができていた。
しかしその後、長野が編集長を退くと『はだしのゲン』は1974年39号にて少年ジャンプでの連載を終了してしまった。
ジャンプ、そのイズム
上げればキリが無いほど、ほとんどのマンガは「友情・努力・勝利」を踏襲している。ジャンプらしい漫画、ジャンプを支える名作マンガほどこの要素は色濃い。
とっても!ラッキーマン
ジャンプのガモウひろしの漫画には勝利マン・友情マン・努力マンという三兄弟が出てくる。それぞれのキャラクターがそれぞれの意義を持って生きている。しかしもっとも大事なものって結局ラッキーだよね。という世の中のドライな側面をマンガにした意欲作だった。
引退後は日本書紀を研究した本をいくつか出版。
さらに書き溜めた「詩」や、戦争で死んだ同胞への思いをこめた作品を書き綴る。
長野規の生涯とは
・戦争で死んでいった友に報いたいという想い。
・出版を通じて人々の心の求めに応じていくこと。
・編集部がひとつにまとまって、世の中の好奇心を吊り上げる企みをしていくこと。
強引といわれた彼だったが、世の中にマンガの楽しさを広く伝えた。
人付き合いの荒さとうまさを持った人だった。どんなに遅くなっても最後の校了まできちんと目を通す、信頼できる編集者だった。
引用:『さらば我が青春の「少年ジャンプ」』西村繁男(3代目編集長)
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