少女とクマとの哲学的対話「『嫌われる勇気』に関する考察5」

〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。
アドレリアン……アドラー心理学を学ぶ人。

アドレリアン「どうも、あなたとお話ししていると、わたしがこれまで学んできたことに疑問が生じてしまう……わたしは間違っているのか? いや、しかし、そんなハズは…………ハッ! ダメだ、ダメだ。もしも、間違っているとしたら、素直にそれを認めなければ、『権力争い』に突入してしまう!」
クマ「なんだい、その『権力争い』って?」
アドレリアン「自らの力を証明するために、勝つことを目的とした争いのことです。たとえば、議論において、自説の正しさを証明するために、相手の説を否定しようと躍起になることです」
アイチ「わたしのクラスにも、そういう子たくさんいるよ」
アドレリアン「すでに高校生のうちからそうなっているとは、これは、ゆゆしき問題だ」
アイチ「権力争いってダメなことなの?」
アドレリアン「それはそうさ。というのもね、もしも、自説が正しいと思うなら、他の人がどう思っていても、そこで完結すべき話じゃないかな。自説が正しいことと、それを相手が納得することは、別のことだ。それなのに、自説の正しさを相手に押しつけようとすることは、相手を屈服させようとすることに他ならない。きみはそれがいいことだと思うのかい?」
アイチ「全然思わないよ」
アドレリアン「それはよかった」
アイチ「でもさ、自説が正しいと思うなら、そこで完結すべきだって、あなたは言ったけど、じゃあ、どうして、人は自説を語るんだろう? 完結すべきなんだったら、別に語る必要は無いんじゃないの?」
アドレリアン「どうしてって……自由に自分の考えを語るということは自己実現の重要な手段じゃないか」
アイチ「ということは、自説を語ることはいいことなの?」
アドレリアン「もちろんだよ」
アイチ「でも、語るっていうことは、誰かがそれを聞くっていうことだよね? そうすると、そこから議論が始まることになるでしょ。議論が始まったら、あなたの言う権力争いに突入するしかなくなっちゃうんじゃないの?」
アドレリアン「いやいや、そうじゃないよ。聞いたからって、必ずしも議論が始まるとは限らないじゃないか。聞き手の方が、なるほどそういう考えもあるのかと受け止めればいいだけのことだよ」
アイチ「わたしもそう思うけど、聞き手にそれを要求することはできないよね。わたし自身は、それを要求することができる人としか、原則的に話さないことにしてるけど。信頼できる相手としかね。クマとか」
クマ「ありがとう、アイチ」
アイチ「どういたしまして。それで、それを要求することができない聞き手に聞かれて議論を挑まれたら、どうすればいいの?」
アドレリアン「そのときはね、そういう議論は受けないようにするんだよ。権力争いから身を引くんだ」
アイチ「負けるが勝ちってこと?」
アドレリアン「いやいや、そうじゃない。勝ちも負けも無いんだ。争いから身を引くんだ」
アイチ「でも、それって、争いから身を引くことで勝つっていう、別の争い方なんじゃないの?」
アドレリアン「なんだって?」
アイチ「議論を挑まれたときに、『あなたとは議論しません』って議論を断るのは、相手から見たら議論から逃げたってことで相手の勝ちのように思われることになるけど、そういう風にあえて相手に思わせてやる、相手に勝たせてやるっていうことで、その人は別の勝ち方をしたっていうことじゃないの? こういうのは権力争いに勝利したことにはならないの?」
アドレリアン「なんていうひねくれた子だ……権力争いは、他者を屈服させるためにするものだから、きみのその考え方は権力争いには含まれないが、しかし……権力争いから身を引くことが、別種の闘争になるなんてことが……」
クマ「その場合は、確かに他者を屈服させたことにはならない。相手は議論から逃げた人を見ていい気持ちでいるわけだからね。でも、心理的なレベルでは屈服させていることになるね。だって、自説の正しさは確信しているわけだからさ。自説が正しいと確信しているということは、議論を挑んでくる相手は間違っているということを確信しているということだ。とすれば、相手を心理的に下に見ているわけだ。もしも、そういう風に心理的に屈服させることを含めて権力争いと言うとすればだよ、相手から議論を挑まれた時点で、もう権力争いからは逃れることはできないんじゃないかな。議論に応じるにせよ、議論を受けないにせよ、どちらにしても、闘争になって、勝者が決まる」
アドレリアン「いや、待ってください。そうだとしたら、そもそも自説を語ることがよくないということになってしまう」
クマ「権力争いがよくないことであり、他者に自説を語ることが必ず権力争いに突入することになるのであれば、そうなるね」
アドレリアン「まさか、あなたは自説を語ることがよくないなんて、そんなことは言わないでしょうね?」
クマ「そうは言わないよ。だって、ボクは、他者に自説を語ることが必ず権力争いに突入するとは思っていないからね」
アドレリアン「どういうことですか?」
クマ「アイチが言っていたじゃないか。信頼できる相手としか話さないって。本当に心の底から信頼できる、自分が言った言葉をその人自身の言葉として受け取ってくれるであろうそういう相手とだけ話せばいいんだよ。そうすれば権力争いなんか起こりようがない。たとえば、ボクはアイチを信頼している。ボクが言ったことは、ボクが言ったことでありながら、アイチ自身の言葉として聞いてもらえるってね」
アドレリアン「いや、しかしですね、それは、一部の、その信頼できる人以外の他者を『敵』とみなすことにつながりませんか?」
クマ「敵というのは大げさだけど、まあ、『どうでもいい人』だとは思うね」
アドレリアン「今度は、そのことに関して、お話しさせてください」
クマ「ぜひお願いするよ」
アドレリアン「アドラーは、『人生のタスク』ということを言っています。個人が社会的な存在として生きていこうとするとき直面せざるを得ない対人関係ですね。具体的には、『仕事のタスク』『交友のタスク』『愛のタスク』ですね」
クマ「なるほど、仕事上の人間関係、友人関係、家族や恋人との関係、といったところかな。これらをタスク、こなすべきこと、とするわけだね?」
アドレリアン「そうです。この三つの人生のタスクを通じて、人は、真に自立し、社会と調和して生きることができるようになるのです。同時に、自分に自信を持ち、他者を仲間として信頼できるようになる」
クマ「なるほど、なるほど。ということは、それらのタスクをこなさないと、人は真に自立して、社会と調和して生きることはできないということだね?」
アドレリアン「ええ、その通りです……まあ、初めから人格が完成しているような人もまれにいるかもしれませんから、そういう人は例外かもしれませんがね。そういう例外を除いては、人は、このタスクから目をそらしてはいけません」
クマ「なかなか大変そうな話だね」
アドレリアン「ええ、そうですとも!」
クマ「ボクだったら、そんなものはうっちゃっておきたい気になるけど」
アイチ「わたしもー、めんどうくさいこと嫌いだから」
アドレリアン「いけない!」
アイチ「うわっ、びっくりした」
アドレリアン「アドラーは、いろいろな理由をつけて人生のタスクを回避することを『人生の嘘』と呼びました。きみは、嘘にまみれた人生を送ることになってもいいのかい?」
アイチ「それは嫌だよ。わたしは本当のことが好きだもん」
アドレリアン「そうだろう! それなら、これらのタスクにしっかりと取り組まなければならないんだ。勇気を持ってね!」
クマ「そうすると、キミは、今アイチが人生のタスクに取り組んでいないとしたら、アイチが勇気を持たない、人間としては自立できていない半人前だと、こう思っているということになるね?」
アドレリアン「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。ひどい揚げ足取りだ。わたしは、アイチさんのことも、そうして、現に人生のタスクを回避してしまっている人のことも、尊重していますよ。わたしは人生のタスクとしっかりと向き合うことで、この社会に暮らす人はみなわたしの仲間だという意識を持っているんですから」
クマ「キミは尊重するということが、その人をあるがまま肯定するということを認めるかい?」
アドレリアン「ええ、認めますよ。言うまでもないことです」
クマ「だとしたら、人生のタスクとやらを遠慮したいと言っているボクやアイチのことも、そのあるがまま肯定してもらうことはできないかな?
アドレリアン「いや、それは……しかし……例えばですよ、ここに病気にかかっている人がいたとして、その人のことをその人として認めるとしても、健康へと導こうとすることは、その人にとって利益があることなのですから、尊重していないということにはならないじゃないですか」
クマ「ということは、キミは、ボクやアイチを病人だと思っているわけだ」
アドレリアン「また、そういう揚げ足取りを。あくまで、比喩じゃないですか」
クマ「じゃあ、ボクも一つ比喩を使おう。キミはバンジージャンプをしたことがあるかい?」
アドレリアン「急になんですか……ありませんよ」
クマ「したいと思ったことは?」
アドレリアン「ないですね。高いところが苦手なんです」
クマ「ボクがバンジージャンプを勧めたらどうする?」
アドレリアン「どうしてそんなものを勧めるんです?」
クマ「バンジージャンプは成人になるための通過儀礼なんだよ。キミはこれをやらなければいけない。そうしなければ、本来、大人とは言えないんだからね」
アドレリアン「どこの部族の通過儀礼ですか……とにかく、わたしはやりません」
クマ「キミは、大人になるためのタスクから目をそむけているね。ボクは、何かと理由をつけてこのバンジージャンプを避けることは人生の嘘だと考えている。嘘まみれの人生を送りたくないなら、キミは勇気を持って、バンジージャンプを行うべきだ」
アドレリアン「……アドラーの教えが、今のバンジージャンプの話と同じだとあなたは言うんですか?」
クマ「少なくとも構造は同じなんじゃないかな。『あなたにはあなたが気がついていないだけで本来すべきことがある。それをしないのはあなたに勇気がないからだ』というのは、臆病者を作り上げるための、かなりひどい言いがかりのように、ボクには聞こえるけどね」

読んでくださってありがとう。もしもこの記事に何かしら感じることがあったら、それをご自分でさらに突きつめてみてください。きっと新しい世界が開けるはずです。いただいたサポートはありがたく頂戴します。