少女とクマとの哲学的対話「俗世とたわむれる聖職者たち」

〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。
〈時〉
2019年2月

アイチ「仏教の宗派である、臨済宗と曹洞宗が、中学校の歴史教科書を発行する会社に対して、自分たちのことを、『禅宗』ってひとくくりにして記述しないでほしいって要望を出したっていうニュース読んだよ」
クマ「ふふっ、ちょっと面白い話だよね」
アイチ「えっ、どこが?」
クマ「いや、だってさ、彼ら僧侶っていうのはさ、俗世間と交わりを断った人たちのはずじゃないか。それが、俗世がすることに口を出してくるんだからね。これじゃ、聖も俗もないじゃないか」
アイチ「お坊さんって、お葬式くらいのときしか関わりがないから、どういう人たちなのかっていうのがよく分からないんだけど」
クマ「まさにその葬儀のような法要を司っている職業だという認識で間違いはないだろうね。あとは、まあ、キミたちと別に変わりないさ。結婚して子どもを作って、欲しいものを買って、休日にはゴルフや旅行にいそしんで、みたいな」
アイチ「悟りを開くために修行する、みたいなイメージもあるけど」
クマ「まあ、そういう僧侶もいるかもしれないけど、その僧侶は勘違いしているな。悟りを開くために修行するっていうのはね、おかしな行為なんだよ」
アイチ「なんで? 滝に打たれることで、真理に目覚めるんじゃないの?」
クマ「ハハ、遅れているね、アイチ。それは、実に2,500年前までの流行だな。そのときは、そういうのが流行っていたんだけど、ゴータマ・シッダールタという人が出てね、『滝に打たれても、ただ冷たいだけで、あんま意味なくね?』っていうことで、『なるほど、そりゃそうだな』ってことになって、そういう苦行はすたれたんだ」
アイチ「苦行はそうだとしても、苦行じゃなかったら、どうなの?」
クマ「苦行じゃなくても同じことさ」
アイチ「どうして?」
クマ「だって、悟りを開くために修行するってことはさ、修行すれば悟りが得られるっていうことだろ? その限りにおいて、悟りというものがどういうものか先に知られていることになるじゃないか。だとしたら、もうその人は、悟っていることになる。悟りが何か知っているんだから」
アイチ「ああ、なるほど」
クマ「だから、悟りを開くために修行するなんていうのは、それが滝に打たれるような苦行であるか、もっと穏やかな座禅のようなものであるかに関わらず、すべて的外れなのさ」
アイチ「……じゃあ、本当に、お坊さんっていうのは、わたしたちと変わりないの?」
クマ「変わりないさ。僧侶に関しては、俗世間の人と違った聖職者であるというイメージがあるけれど、俗世に交わっている限りは、なんらボクらと変わらない。だから、僧侶であるということで有り難がる必要性は全く無い。もちろん、彼らの語る言葉が、それ自体で有り難いということはあるかもしれないけれど、僧侶という立場から語られるから有り難いという話じゃないさ。今、彼らの語る言葉それ自体が有り難いということはあるかもしれないとは言ったけど、ただね、ボクはどうも世間でもの申すような坊主の言うことを信頼する気にはなれないんだ。出家したのに、なんで世間と戯れているんだコイツは、そんなヤツの言うこと聞いてもしょうがないという気に、どうしてもなる」
アイチ「たとえば、アスリートの話を聞けば、そのアスリートの視点で世の中について考えられるようになるし、ビジネスパーソンの話を聞けば、ビジネスという視点から世の中について考えられるようになるでしょう。それと同じで、僧侶の話を聞けば、僧侶という視点から世の中について考えられるようになるんじゃないかな。そういう意味で、お坊さんの話を聞くことも価値があると思うけど」
クマ「それは確かにキミの言うとおりなんだけどね、そもそも、そういう世の中についての視点を色々と持つということを拒絶するところに、出家ということの価値があったんだよ。そういう意味で、やっぱりボクは、世の中のことをあれこれ考えて話をする坊主なんていうのは、どこか信用に値しない気がするんだな」

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