少女とクマとの哲学的対話「『嫌われる勇気』に関する考察4」

〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。
アドレリアン……アドラー心理学を学ぶ人。

クマ「キミが前に話してくれた、相手を屈服させるために怒りを捏造するという話は面白かったな。まあ、ああいう風に考えることができれば、怒ることっていうのは減るかもしれないね。『今のこの怒りは相手を屈服させるために利用しているに過ぎないかもしれんぞ』と思うと、なんだか格好悪く思えるものだからね」
アドレリアン「ホッ……分かってくれましたか」
クマ「でも、ボクはこれに関しても少し疑問があるんだけど」
アドレリアン「何でもおっしゃってください」
クマ「怒りという感情は、あらゆるものがそうなんだろうか? どのようなときにでも、怒りは、相手を屈服させるために利用されるものなのだろうか? たとえばだよ、政治に対する怒りのようなものも捏造されたものなのかな?」
アドレリアン「いえ、それは違います。そういうものは、社会の矛盾や不正に対する憤りであって公憤といい、私的な怒りである私憤とは区別されます」
クマ「なるほど、怒りには、私憤と公憤で二種類あって、分けて考えないといけないとキミは言うんだね?」
アドレリアン「ええ、そうですとも! そうして、私憤のみが、他者を屈服させるために利用されるのです」
クマ「それは本当だろうか」
アドレリアン「なにか問題がありますか?」
クマ「社会の矛盾や不正に対して人が憤りを持つとき、その人自身がその社会的矛盾や不正の犠牲になっていることがあるよね? たとえば、ある女性が、女性差別に対して憤りを持つとき、その女性自身も女性差別を受けたことがあるという想定は自然なものじゃないだろうか。むしろ、これまで全く女性差別を受けていない女性が、純粋に、社会問題だからといって女性差別に対して憤りを持つということは、ちょっと考えにくいんじゃないかな?」
アドレリアン「まあ、そうでしょうね」
クマ「そうだとするとだよ、その女性の女性差別に対する憤りというのは、私憤なのだろうか、それとも、公憤なのだろうか?」
アドレリアン「それは、まあ……彼女が具体的に受けた女性差別に対する怒り、たとえば、彼女が女性だからという理由で昇進を受けられなかったことに対する怒りが私憤で、それによって、女性差別そのものに向けられるようになった怒りが公憤になるんじゃないですか?」
クマ「なるほど、しかし、彼女の怒りが、女性差別そのものに向けられるようになったときでさえ、他ならぬ自分という女性が受けた差別に対する怒りが消えているわけではないよね。それとも、公憤を覚えると、私憤は綺麗さっぱりと消えるのかな?」
アドレリアン「……それは、ちょっと考えにくいと思います」
クマ「だとすると、公憤を覚えている人というのは、同時に、私憤も覚えているということになるんじゃないだろうか。少なくとも、その場合が多いとは言えるんじゃないだろうか」
アドレリアン「…………」
クマ「そうすると、公憤と私憤は厳密には区別できなくなるよね」
アドレリアン「……なりますね」
クマ「ボクは、この私憤と公憤に関しては、さらにちょっとした疑いを持っているんだけど、ふふふ」
アドレリアン「な、何ですか?」
クマ「キミの、人は相手を屈服させるために怒りを捏造するという言い方にならって言えばね、人は私憤を正当化するために公憤を捏造するんじゃないだろうか?」
アドレリアン「何ですって!? いや、何を言っているんですか、あなたは! それは、人間という存在に対する大いなる冒涜だ! 人間はそのような卑小な存在じゃない!」
クマ「キミの周囲に、明らかに自分自身が努力をしていないのにも関わらず、それを社会の責任にしているといった人はいないかな? それほど能力が低そうなわけでもないのに、その能力を磨く努力を怠っている。それでいて、自分が評価されないのは自分の努力不足ではなく、社会に見る目が無いからだと思っているというような人は」
アドレリアン「いますよ。というよりは、まあ、悲しいことですが、この社会にはおおかたそんな人ばかりじゃありませんかね。そういう人たちこそ、わたしは救いたいと思っていて、色々と話をしているんです」
クマ「うまくいっているかい?」
アドレリアン「わたしが未熟なため、いくときもあれば、いかないときもありますね」
クマ「もしも、そういう人がだよ、こう言い出したら、キミはどうする? 『この世の中は努力するものが報われるようになっている。これは、どう考えてもおかしい。これは努力差別だ。人間はただそこにそうして存在しているだけで価値があるんだ。わたしは、この努力差別を撤廃するために立ち上がる!』」
アドレリアン「どうするって……自分が努力していないから報われないことを社会のせいにして、あげく社会を努力しないで済むように変えようだなんて、まったく意味が分からないですよ」
クマ「こういう人は、私憤を正当化するために公憤を捏造していると言っていんじゃないかな?」
アドレリアン「いや、しかし、そんな人は現実にいないじゃないですか」
クマ「そうだろうか。確かに、今のようなことを主張する人はいないかもしれないけど、それに類することは、しょっちゅう主張されているんじゃないかな。たとえば、コンテストで低評価を受けた演者が、コンテストの審査方法を問題にする、とかね。こんなのは、自分が低評価を受けたことによる私憤を正当化するために、コンテストの審査方法の不正に対する公憤を捏造していると言えないかな」
アドレリアン「……では、あなたは、純粋な公憤なんてものはありえないと、そう言うんですか?」
クマ「いや、そこまでは言わないよ。キミも言った通り、人間はそこまで卑小な存在じゃない。平和な国に住んでいて戦争とは無縁でも、戦争について思いを馳せ、怒りを覚えることはできるし、自分自身は健康であっても、他者の病気に対して怒りを覚えることもできる。しかしね、忘れてはいけないのは、人は社会の中で暮らす限り、個人的なことと社会的なことは分けられないってことだ。個人的な怒りは私憤で、社会的な怒りは公憤だ、なんてそんな簡単な話にはならないんだよ」
アドレリアン「…………」
クマ「この私憤と公憤について、もうちょっと話してもいいかな?」
アドレリアン「もちろんです」
クマ「ボクは、さっき、平和な国に住んでいて戦争とは無縁でも、戦争について思いを馳せ、怒りを覚えることはできる、と言ったけれど、どうしてそんなことが可能なんだろうか? 女性差別の問題でもいいさ。自分は男性で、全く女性差別には無縁だし、自分の身内の女性や親しい付き合いをしている女性も、特に女性差別を受けたわけでもないけれど、それでも女性差別に対して憤りを覚えることはできる。これはなぜだろうか?」
アドレリアン「なぜって……人間には想像力があるからじゃないですか?」
クマ「そうだね。人間には他人のことを自分のことのように感じられる力がある」
アドレリアン「そうです、それが人間の素晴らしいところです」
クマ「だとするとだよ、公憤というのは、社会の不正に対する怒りであって、それはすなわち、他人が不正を受けたことに対する怒りなわけだけれど、他人が不正を受けたことに対してどうして怒りを覚えるかというと、それは想像力によって、自分が不正を受けたように感じることによるということだったね。そうすると、公憤というのは全て私憤なんだと言ってもいいんじゃないかな?」
アドレリアン「……ちょっと待ってください、そうすると、私憤と公憤という区別が全くなくなってしまうじゃないですか」
クマ「そうなるね。そういう風に考えると、私憤が相手を屈服させるために捏造されるものであって、公憤はそうじゃないということにはならないね。私憤も公憤も無いわけだからね。怒りというのは全て相手を屈服させるために利用されるものだということになる」
アドレリアン「それはちょっと承服しかねますね。だとしたら、それは、怒りという感情の全否定につながりますよ」
クマ「相手を屈服させることが悪いという前提に立つとそうなるけれど、それは果たして本当なのかな。そもそも、相手を屈服させようとすることは、本当に悪いことなのだろうか」
アドレリアン「それに関して説明させてください」
クマ「どうぞ」
アドレリアン「人生は他者との競争ではありません。だから、相手を屈服させる必要など全く無いのです。いえ、無いどころか、相手を屈服させようとすると道を誤ることになる。だからこそ、相手を屈服させようとすることは明確に悪いことなのです」
クマ「なるほど、でも、人生は他者との競争でないとすると、いったい、どのようなものになるのだろうか?」
アドレリアン「人生はですね、『理想の自分』との競争なのです。他人との比較によるのではなく、いまの自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値があるのです」
クマ「うんうん、それは、たとえば、こういうことかな。ある人がダイエットしていたとして、他人よりやせることを目指すのではなく、以前の自分よりやせることを目指すというような」
アドレリアン「その通りです」
クマ「そうして、理想の自分の体型に近づいていく」
アドレリアン「そうです。他人よりもやせることができているかではなく、あくまで自分の理想に近づいていくことを目的とするのですね」
クマ「なるほどね。ところで、アイチ、キミはダイエットしたことある?」
アイチ「何度もあるよ。全然成功しないけどね」
クマ「どうして、ダイエットなんかするんだい?」
アイチ「どうしてって……わたしよりやせている友だちを見て、わたしもやせてみたらどうなるのかなって思ってさ」
クマ「自分の理想的な体型を目指してというわけじゃないんだね?」
アイチ「自分の理想的な体型ってなに? わたし、そんな理想なんて無いけど。やせている人を見て、ああなったらどんな風になるのかなって、思っただけだよ。ダイエットなんてそういうもんじゃないの?」
クマ「とこう言っているけど、キミはどう思う?」
アドレリアン「どうって、何がですか?」
クマ「アイチはダイエットするときに、自分の理想的な体重なんてものは考えずに、他人との比較をしていたわけだけれど、これは、キミの考えによると、よろしくないことになるよね?」
アドレリアン「まあ、そうですね」
クマ「でも、そもそも、ダイエットするときにだよ、自分の理想的な体重なんてものを考えてする人なんているだろうか? まあ、体重くらいならいるかもしれないね。身長や性別や年齢から、科学的にどのくらいが理想的かなんてことは、推し量れるから。でも、理想の自分なんてものはどうだろう。こんなものは科学的に推し量れるものじゃないよね? とすると、理想の自分は、どうやって形作られるのか。キミは、理想の自分というものを、どう考えているんだい?」
アドレリアン「わたしの理想は、アドラーのようになりたいというものですが」
クマ「だとしたら、理想の自分が他者から作られていることになるね?」
アドレリアン「まあ、そうですね」
クマ「理想の自分になるために、その理想の自分を形作る他者に追いつこうとする」
アドレリアン「ええ、そうです」
クマ「その他者に追いつこうとするということは、つまり、他者を屈服させようとすることじゃないのかい? だとすると、他者を屈服させようとすることは、理想の自分に近づくことになり、必ずしも悪いことではなくなるんじゃないかな?」
アドレリアン「何を言っているんですか!? それとこれでは、話が全然違いますよ!」
クマ「そうだろうか?」
アドレリアン「そうですとも! あくまで、他人を屈服させようとするのは、他者との比較が前提にあって、理想の自分を目指すのには、他者との比較など無いのです。だから、理想の自分を目指していれば、他人を屈服させようとする必要なく、そのために怒りを利用する必要も無くなるんです!」
クマ「しかし、キミは、理想の自分を目指すためにも、他者の存在が必要であることは認めたわけだろう? キミの理想はアドラーのような人間になることだけれど、それは、アドラーという他者の存在無しには成立しない理想じゃないか」
アドレリアン「それは……そうですが」
クマ「だとしたら、キミの理想を達成するためには、その理想を形作るアドラーという他者との比較という視点は、絶対に拭いきれないものじゃないかな。キミは、理想の自分について考えるとき、『少しはアドラーに近づけたかな』とか、『アドラーだったらこういうときはこんな風にするかもしれない』とか、あれこれ思い巡らすわけだろう?」
アドレリアン「まあ、それは、確かに……」
クマ「それなら、やっぱり、理想の自分を達成するためにも、他人との比較という視点は不可欠じゃないか。アドラーのようになりたいと思ったら、アドラーと今の自分を比較する必要がどうしてもある。比較した結果、何が自分に足りないかということを考え、その不足を補うと共に、アドラーを超えようとする。それが、そのまま、アドラーを屈服させようとすることにつながるんじゃないか? とすれば、理想の自分を達成することがいいことだとすれば、そのために、他者を屈服させようとすることだっていいことにならないかな? そして、そうだとしたら、他者を屈服させるために利用される怒りというものも、否定すべきものではなくなる」
アドレリアン「いや、そんなものは詭弁に過ぎない! 何をどう言いつくろったって、喫茶店でコーヒーをこぼしたウェイターという他人を屈服させようとして怒ることが、肯定されることはない!」
クマ「それは怒りという感情が否定されているわけでなくて、怒りをあらわにすることが否定されているだけなんじゃないかな? 喫茶店でコーヒーをこぼされたという小さなことで怒りをあらわにしなくてもいいじゃないか、ということに過ぎない。怒ってもいいけど、怒りをあらわにするのは大人げないということだろう」
アドレリアン「…………百歩譲って、あなたの言う通りだとしても、理想の自分に到達するために、理想としている他者を屈服させようとすることで、どうして怒りが利用されるんですか?」
クマ「そんなの決まっているじゃないか。そのとき、人は、なかなか理想に到達できない不甲斐ない自分に怒るんだよ。その怒りによって、人は前進していくんだ。怒りは否定されるべきものでもなんでもないよ」

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