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絵にモヤモヤする人のための描かない絵画教室|はらだ有彩

 私は文章を書き、絵を描くので、「テキスト」と「イラストレーション」を足して2で割り「テキストレーター」と名乗っている。ダジャレである。わざわざダジャレの造語を肩書きに掲げるほどには、絵を描くことが好きだ。「テキストレーター」を名乗る前は、関西の芸大生だった。わざわざ芸大を受験するほどには、絵を描くことが好きだ。

 絵を描くことが好きなので、世の中の絵を描くことが好きな人々と同じように、現実世界にあるモノを見ては「うお~、このモチーフは描き甲斐があるな~」とか、「うお~、こんなシーンを絵にしたいな~」とか、「うお~、これ絶対描きたくね~」などと考える。誰かが描いた絵を見ては「うお~、めっちゃ絵うめ~」とか、「うお~、これどうやって描いたんだろ~?」とか、「うお~、この絵はこういう文脈の延長線上にあるのかな~?」などと考える。特に何も見なくても「うお〜、とりあえず描いてみるしかねえ~」などと考える。
 一方で、誰かが描いた絵を見てモヤモヤすることがある。うーん、なんだか、居心地が悪い気がする。何かが忘れられている気がする。何かを踏みつけにしてしまった気がする。とりわけ、「女性のイメージ」を描いた絵を見たときに。「女性のイメージ」を描いた絵をめぐって、様々な女性が「嫌だな」と思ったことを口にしているにもかかわらず、その抗議が慣性の法則に従って軽んじられるときに。そしてモヤモヤしながら、自分で描いた絵を見て思うのである。……この絵も、誰かをモヤモヤさせていないだろうか…?

 2021年の秋、私は株式会社Unicocoさんが運営するオンラインカルチャースクール〈ゆにここ〉にて、絵画教室の授業を開催させていただいた。そのときにテーマに掲げたのが、この「絵を見るときに、絵を描くときに、感じるモヤモヤ」である。とりわけ、「女性のイメージ」を描いた絵を見るときに、描くときに。この連載は、そのスクールを書き改めたものである。
 「絵画教室」と名乗っているが、絵を描く人だけに向けているわけではない。自分では絵を描かない人、専ら見て楽しんでいる人、イラストというよりは芸術畑なのでジャンル違いかな? と感じている人の身にも、絵は降りかかる。好きなはずの絵にモヤモヤしたことがある人にも、昔好きだった作品がなんだか楽しめなくなってしまった人にも、絵は好きなのに作者の考えを知ってモヤモヤしてしまった人にも降りかかる。街中で絵の前を通りかかっても興味も持たないよ、という人の身にさえも降りかかる。この世界は絵であふれかえっており、絵であふれかえった世界で吸収した感覚で、私たちは生きているのだ。

 ――なぜ自分はこの絵を見たときに/描いたときに、モヤモヤするのだろう?
 「女性のイメージ」を描いた絵にまつわるモヤモヤの直接的/間接的原因は、ぱっと思いつくだけでも無数にある。
 例えば、「裸婦」「女体」「女の子」「女性」という「記号」がひたすら、繰り返し、絵のモチーフになってきたこと。なぜモチーフが「女体」「女の子」「女性」でなければいけないのかは顧みられないこと。表現の「崇高さ」や「泥臭さ」や「捨て置けなさ」を前に、その表現を「嫌だ」と感じる女性の抗議が軽んじられること。芸大・美大の生徒の多くが女性で、教授の多くが男性であること。それが女性の技術不足ややる気不足、真摯さの不足だと思われること。女性の作品の価格が男性よりも低く設定されること。女性アーティストと男性アーティストがパートナーになった場合には女性がサポート役に回るケースが多いこと。これらの無数の原因が複雑に入り混じり、地層のように押し固められていること。

 絵は、もちろん人を傷つけることもある。何らかの問題提起をするときに、まさに今その問題の渦中で誰かが傷ついている状況を、再現して見せることもある。あるいは、傷つけることに特化した絵を、傷つくことを目的として個人が楽しむ場合もある。
 ついでに、絵は厄介だ。絵が視界に入ると、反射的にさまざまな感覚が刺激され、さまざまな文脈が想起させられ、さまざまな情動が押し寄せる。既に感じ終えた「好きだなあ」という直感的な感覚を、モヤモヤに思い至る前に培い終えた愛着を、すぐに打ち止めにできるなら苦労しない。
 それに、描くことは重労働だ。何時間も、何日も、何年もかけて描いた絵が、ねらいの中では全く気づいていなかった要素で誰かをモヤモヤさせていて、そのモヤモヤが絵そのものが呼び起こすはずだった情動を凌駕しそうになっていたら、「そんなモヤモヤ、気のせいじゃないのか?」と言いたくなってしまうかもしれない。
 それでも絵が好きな人は、「そんなに面倒なら、もう絵なんて概念ごとなくなってしまえばいいのに」「もう絵なんて描かないでおこうかな」「二度と見ないでおこうかな」とは思えないだろう。絵が好きだから。
 そんなわけで、自分自身を含む「絵にモヤモヤする人のための、描かない絵画教室」を始めようと思う。

 始めるにあたり、この連載では女性表象を【「女性のイメージ」を描いた絵】と呼ぼうと思う。「この絵に描かれているのが女性だとなぜ分かるんですか? 女性じゃないかもしれないから、この絵の女性表象に感じるモヤモヤは無効ですよね?」という混ぜっかえしを予め避けるためだ。それから、「共通の記号を大いに利用しながら共通の認識を呼び起こす」という絵の特性が取りこぼしてきた、現実世界のさまざまな、あらゆる女性を再度取りこぼさないためだ。その取りこぼしにこれから触れていきたいので、この説明自体が入れ子構造になってしまっているが、ひとまず【「女性のイメージ」を描いた絵】と呼ぶ。
 「女性のイメージ」を描いた絵――「裸婦」「女体」「女の子」「女性」という「記号」が散りばめられた絵が、全ての女性にどう作用し、どうモヤモヤに繋がっているのか、考えていこうと思う。絵が好きだから……。

著者:はらだ有彩(はらだ・ありさ)
テキスト、テキスタイル、イラストを作る“テキストレーター”として活動。著書『日本のヤバい女の子』『日本のヤバい女の子 静かな抵抗』『百女百様』『女ともだち』『ダメじゃないんじゃないんじゃない』はいずれもイラストも担当している。ILLUSTRATION2021掲載。

連載「絵にモヤモヤする人のための描かない絵画教室」について
私たちの身の回りには、さまざまな絵があふれています。仕事であれ趣味であれ、自ら描く人もいれば、純粋な楽しみとして描かれた絵を見る人もいるでしょう。しかし、そんなありふれたものだからこそ、絵にたいしてモヤモヤする瞬間も、たくさんあるのではないでしょうか。とりわけ、「女性のイメージ」を描いた絵にたいして……。本連載では、そんなモヤモヤにたいする解像度を高め、(良くも悪くも)絵がもっているパワーと厄介さを理解し、最終的にはそれでもやっぱり「絵が好きだ」と思えるようになるための「描かない絵画教室」です。