見出し画像

巨大都市殺し|高島 鈴

 今もはっきり思い出せるんだけど、実家近くの横浜線の線路沿い、フェンスと線路のちょうど間のあたりに、キャベツが植わっていた。たぶんキャベツ。少なくとも球形の葉物だった。鳥避けの風車も立っていて、農作業用の帽子を被った見知らぬ人物が、腰を曲げて野菜の世話をしている様子を何度も見た。だから幼少期の私は素直に、ああこの土地はこの人の畑なんだな、と納得していた。
 それから何年もして、私がティーンエイジャーになるかならないかくらいの時期だったと思う。突然その畑がなくなった。耕され、野菜が植えられていたあの場所は、突然全てひっぺがされて、何か立て看板――どんな文面だったかは忘れたが、とにかくここはJRの土地で、耕作してよい領域ではないという趣旨のもの――が立ち、あの農作業用帽子の人物もいなくなってしまった。その光景を見て初めて、私はあの畑が誰の許可も得ずに勝手に耕されていた地面であったと知ったのだった。いや、確かに、あんな線路の真脇、あんなギリギリの場所にキャベツが植えてあったのは、異様な状態ではあったのだけど……。
 「ゲリラ・ガーデニング」という言葉に出会ったのは、あの畑がひっぺがされてさらに十年以上も経ってからである。ゲリラ・ガーデニングとは、公共空間をひっくり返して勝手に耕作する運動だ。整地された場所を植物によって侵犯し、その〈都市計画〉をかき乱す。たとえば野菜の価格が非常に高い街の道端をひっくり返して家庭菜園にしてしまうとか、あるいは再開発で殺風景に整えられてしまった場所のコンクリの裂け目に花の種を蒔くとか、その手法は多岐にわたる。それは思想があってもなくても、確実に都市空間の撹乱であり、巨大な権力によって規定された場所を民衆のための領域として生き直す、空間の書き換えなのだ。
 批評家の高祖岩三郎は、都市の両義性が顕現する場所としての「巷」について、以下のように述べている。

かかる「ちまた」がわれわれの出発点であり回帰点である。無論それは両義的な場である。それは犯罪や事故やさまざまな不幸が生起する場であり、だがこの人間社会を構成するあらゆる種類の人々の交流が、喜びのうちに産声を上げて生まれる場でもある。そこでは最も陰険な監視システムが人々の行動を統制する可能性があり、かつ人々の自律空間が多種多様に発生する可能性がある。それはそれを力と金を増殖する手段にしようとする計画者の夢や欲望と、そこで生存しようとする人々の夢や欲望が激烈な闘争を繰り広げる戦場である。つまりそれは人々の夢や欲望という幻想的現実が、都市空間の物質的現実として最も直接的に現前する場なのである。[1]

 巷とはまさに闘争の場なのだ。空白の土地に植えられたキャベツ、それをひっぺがすJR。

 私の故郷は東京都町田市だ。ちょうど東京と神奈川の都県境に位置する。西東京でも指折りの繁華街であり、都心や横浜方面へのアクセスもよい、大きなベッドタウンである。町田はよく「神奈川県町田市」と揶揄されているが、実感として存在するのは神奈川の町田でも東京の町田でもなく、川を挟んで隣接する神奈川県相模原市と町田市が融和して形成された「町田・相模原」という固有のエリアだ。町田駅前に、相模原市の人間も町田市の人間も、「町田に行く」と言って出かけていく。駅前には大量の駅ビルと古い店構えが共存し、駅裏にはホテル街と住宅地、そして都県を隔てる境川――ただし飛地も多い――が広がっている。治安はあんまりよくないが、よそから思われているほど悪くはない。本屋が多い。喫茶店や古着屋も多い。ブックオフがでかい。ただし映画館がない(昔は「グリーン劇場」「ローズ劇場」とか「ぱるる」とかがあったけど全部潰れた)。私は人生のうち少なくとも四半世紀を、この境川沿いのゴチャついた街で過ごした。

 町田を舞台にした作品に、『まほろ駅前多田便利軒』がある。同作の舞台である「まほろ」というのは町田をモデルにした架空の町で、作者の三浦しをんは実際に短くない期間を町田に暮らしたことで知られている。作品に分け入るのはいったん置いておいて、ここで言及したいのはドラマ版『まほろ駅前番外地』の第五話だ。主人公の便利屋ふたりが、自分が実子ではないのではないかと疑う依頼人の話を喫茶店で聞いている。その最中、依頼人の声が急にテロップに切り替わり、代わりに爆音で飛行機の音が流れ出すのである。
 この演出を見たときは思わず笑い出してしまった。あまりにも見覚え、いや聞き覚えのある光景だったからだ。町田は米軍基地の座間キャンプに近いため、飛行機の音がめちゃくちゃうるさいのである。ドラマの唐突なテロップは、明確に「町田らしさ」演出のために挿入された「あるある」だった。
 だがその「笑い」に、ふと自ら立ち止まる。私が離郷して別の土地に移り住んだときも、まず気がついたのは音の不在であった。音がしない。会話を遮る真昼の爆音がない(ついでに言えば暴走族が噴き上げる夜中のコールもない)。そして私は静かな椅子に腰掛けながら、それを確かに。米軍基地の存在が許し難いのは当然であるにもかかわらず、である。実家は行政の金で防音サッシと換気設備を無料で取り付けられたくらい爆音に晒されていたし、あまりに音が近いので「もしかして落ちてくるんじゃないか」とうっすら恐怖するときもあった。それでも私にとって米軍飛行機の爆音は明らかに町田のものであり、愛着の対象であったのだ。これって大丈夫なのか? ? それって本当はマズいんじゃないか?
 私にとって抗うべき秩序とは、そのような力である。つまり私が生きて愛着を覚えた空間に、否応なく権力を溶け込ませ、それらを強制的に受容させてしまう仕組み。町田において米軍基地の飛行機が景観になってしまったように、それが「町田らしさ」というギャグとして成立させられてしまったように、あるべきでないものを無理やり自然化するための強制的な秩序。それを敷くことができてしまう絶大なものすべて。
 為すべきは〈巨大メガロ都市ポリス殺し〉である。私が殺したいと願うのは、私が実際に生きた都市空間では絶対的になく、また単純な地図上の「東京」でもなく、秩序を強いる空間概念としての〈巨大メガロ都市ポリス〉なのだ。

 ここでリニアの話をしないといけない。リニア中央新幹線とは、JR東海が推し進めているカスの計画だ。段階を踏んで、東京から名古屋、大阪と延ばしていき、東京―大阪間を一時間で走行できるようにしたいらしい。最終的に構想されているのは、六〇〇〇万人を包摂する大都市圏なのだという。だがその計画にはあまりにも問題が多すぎる。あまりに多いのでかいつまんで話してみよう。
 まずは安全面に疑問がある。リニアは大量の電気で車体を浮かせ、磁力で地下を高速移動させる仕組みだから、電磁波の影響がどれだけ出るかわからない(電磁波が人体に害を及ぼすことについてはすでに無数の研究があるようだ[2])。地下を掘り進める工事が大規模に行われるため、地盤沈下の恐れもある。ちなみに地下工事については大深度法と呼ばれる地権者の許可なく地下の公共工事を可能にする法律がすでに作られていて、東京外環道の工事は大深度法に拠り住民の猛反対を押し切る形で行われている(これを進めたのは国交省及び石原慎太郎だ!)。そして実際調布では陥没事故が起きていて、リニア工事で同じことが起きない保証はない。
 そして電力消費の問題である。これは原発の利権とも絡み合っていて実にきなくさい。そもそも電力会社は八〇年代から原発増設のために電力需要の掘り起こしを狙っていたが、新幹線の三〜五倍にのぼる大量の電力を消費するリニアはその格好の口実となった。電力会社とリニアは共犯関係を結び、原発増設や再稼働を推進している。リニア肯定派は「クリーンエネルギー」の乗り物であることを過剰に強調するが、電力供給元を考えればそのようなことは絶対に言えない。
 さらに環境破壊の問題も甚大である。現在のリニアの計画では南アルプスを掘削してトンネルを通すつもりらしいが、そんなことをしたら一体どれだけの水源が止まり、生態系が破壊されるか知れない。実際に山梨にある実験線の工事の際は水源の枯渇が生じている。
 そして根本的なのは、そもそもリニアはほとんど必要とされていないということだ。リニアには貨物がないから、非常事態に際して物資を運ぶには全く適していない。災害対策には何の役にも立たないのである。そして皆気づいていると思うけれど、東京―名古屋―大阪をつなぐ乗り物はすでにある。新幹線というものだ(JR東海はそれを知らないんだろうか)。つまり「早い」以外にリニアの価値は存在しないのだ。
 以下はリニアの試験用路線がある山梨県立リニア見学センターのホームページに掲載されていた白々しい甘言である。

リニア中央新幹線の導入は、東京ー名古屋ー大阪という大都市圏を一体化し、ひと続きのメガポリス原文ママを誕生させるとともに、日本列島全体の時間距離を短縮し、経済社会活動の効率性を高める効果があります。また、広い地域を高速交通網に組み入れることができ、多様な拠点都市が誕生します。移動時間の短縮は、人、モノ、情報の活発な交流を生み出し、快適な生活圏の創造とバランスのとれた国土づくりが可能となることでしょう。このようにリニア中央新幹線の実現により、世界でも稀に見る高度な都市機能と自然が調和した魅力的な経済都市圏がことが期待されています。[3]

 東京ー名古屋ー大阪という大都市圏を一体化し、ひと続きのメガポリス原文ママを誕生させる。世界でも稀に見る高度な都市機能と自然が調和した魅力的な経済都市圏が

 バカじゃないのか?

 リニアを通せば自然は破壊される。南アルプスの山を掘削すればどこの水源がどう枯渇してしまうかわからない。リニアには他路線との乗り入れがないし、高速で東京―名古屋―大阪間を行き来できるようになって生じるのは地域の活性化ではなく、間違いなく東京への一極集中である。都市への一極集中がパンデミックを拡大するのにどれほど貢献したかは思い出すまでもないだろう。
 いい加減にしてほしい。

 JR東海が推し進めているリニア中央新幹線の計画には、相模原市橋本に駅を設置する予定が含まれている。橋本は町田から横浜線で一本、MOVIX橋本という映画館があって、映画館のない町田の人間はしばしば橋本へ出ていく。私もよく映画を見に行った。先に述べた通り、町田と相模原は一体化して、互いを補完している。橋本はそういう街、私の視界にずっとあった街の一つだ。
 私が恐れているのは、リニアが米軍基地の飛行機のように、私の街の景観に溶け込んでしまうのではないかということだ。あるいは他者の街で同じことが起きてしまわないかということだ。もちろんリニアはほとんど地下に埋まっているから、車体と出くわすことは日常的ではないだろう。しかし景観とはそれだけではない。例えばリニアのせいで地元の水源――実家の近辺は井戸水を引いている家が少なくない――が止まったら? どこかが突然陥没して、そのニュースがさらっと流されるようになったら? 電磁波の影響で健康被害が出るのが当たり前になったら? リニアがあるし原発は必要だね、と口に出す人が増えていったら? 大きな力で土地が勝手に削られるのを、誰もが仕方のないものとして受け入れるようになってしまったら?
 考えるのだ、次、その次、巨大な秩序の横暴を何かひとつ許してしまうたび、やつらは必ずそれにつけ込んで次に振るう拳に息を吹きかける。暴力は終わらない。リニアが構想するとやらに勝手に編成されてしまったら、もう本当にどこもかしこも悲しい〈東京〉のダビングテープに成り果てるだろう。くどいようだが、生きられた空間としての東京を責めたいわけではない。私が責めたいのは中央集権性を象徴する〈巨大メガロ都市ポリス〉としての〈東京〉だ。「巷」のせめぎ合いの中で、巨大な秩序の言いなりにさせられる前に、やつらを噛み砕かねばならない。
 でもどうやって?

 さて、話をかつてのゲリラ農耕地に戻す。なぜか最近になって、そのJRの土地には時折謎の出店が出現するようになった。明らかにライセンスを得ずに作られているであろうジャニーズの下敷きやポスター、アニメのカレンダーなどを、折りたたみのテーブルに並べて売る老いた露天商があらわれたのである。線路立ち入りを防止するためのフェンスにはポスター類の見本が並べられ、折り畳みのテーブルの前に「全部百円」と手書きされた紙が貼られている。昼前に目撃しても、夕方には消えている。だが何度もいる。
 もう、なんというか、私はそれを見た瞬間妙に浮足立ってしまった……いやだって、雑草だけに成り果てたJRの土地に、突然現れる大量のプリキュアや嵐のパチモン、それを売る謎の老人! なんで今、なんでここ? その疑問が生じている時点でここは都市の空隙で、それを突いた謎露天商は、実に「巷」的存在として巨大都市にブッ刺さっているのではないか?
 ブッ刺す! そう、ブッ刺すっていうのが超重要、われらは都市に隙間を求め、そこに絶え間なく自らの生をブッ刺していくべきなのだ。などに編まれない/把握されない、不安定で即興の生を。もちろん読者諸氏に突然露天商をやれと言いたいわけではない、ブッ刺すためのやり方は一つではない。これから私は連載の中で、都市に己をブッ刺しては抜き、ブッ刺しては抜きを繰り返すための手法や手がかりをあちこちから引っ張ってくるつもりである。われら民衆の実践を通じて巨大秩序=メガロポリスがだらだら血を流す。その果てにあるアナーキーで新しい空間を、私は何よりも見てみたい。だからあなたを誘っているわけだ。私も何ができるかはっきり言ってようわからん、だがやれるとこまで、やれる範囲で、とりあえず殺ってみないか。武器ならきっとある、それをこれから探してくるのだ。


【注釈】
[1] 高祖岩三郎『流体都市を構築せよ!――世界民衆都市ニューヨークの形成』青土社、二〇〇七年、二三頁
[2] リニア・市民ネット 編著『危ないリニア新幹線』緑風出版、二〇一三年
[3] 「山梨県立リニア見学センター」(最終アクセス二〇二一年二月一日一九時)


【参考文献】
高祖岩三郎『流体都市を構築せよ!――世界民衆都市ニューヨークの形成』青土社、二〇〇七年
■リニア・市民ネット 編著『危ないリニア新幹線』緑風出版、二〇一三年
■山本義隆『リニア中央新幹線をめぐって――原発事故とコロナ・パンデミックから見直す』みすず書房、二〇二一年

連載『巨大メガロ都市ポリス殺し』について
本連載は、人を管理し封じ込めようとする、あるいは周縁化し排除してかかろうとする巨大秩序=メガロポリスの暴力に抵抗するため、個別具体的テーマから都市に対する〈殺意の言語化〉を試みるものだ。われらはいかに都市に叛き、いかに都市の侵蝕を図りうるのか。巨大メガロ都市ポリス殺しの武器はそこらじゅうに転がっているはずである。

著者:高島 鈴(たかしま・りん)
無所属のライター・編集、アナーカ・フェミニスト、社会史研究者。1995年生。Twitter:@mjqag