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【第2回】上を向いて歩こう|地下鉄にも雨は降る|友田とん

 ゴールデンウィークの最中のことだった。友人宅を訪ねるために、朝JR 埼京線渋谷駅のホームに立っていた。渋谷駅では恵比寿駅方に離れてあった埼京線ホームを山手線ホームの向いに移し、それぞれを両側に線路のある島式へと改造する大規模な駅改良工事が進行中であり、今、ホームは板張りになっている。ホームドアのない仮設のそのホームに電車が入ってきた瞬間、私は咄嗟に怖いと感じた。そして、恐怖を感じている私に驚いた。この十年ほどの間に、すっかりホームドアが当たり前になっていたのだ。電車には必ずドアが付いているのに、どうしてホームにはドアが付いていないのか。エレベーターより高速なのに。なぜこれまでホームドアがなかったのかと思いもする。だが、だからと言って、ホームドアなどほとんど設置されていなかった時代にまで遡り、ホームドアを設置してこなかった当時の人たちをただちに非難しようとは思わない。何しろ、私は上京した四半世紀前に、ホームの端近くに立って待ち、車両とホームの長さ故かほとんどまだ速度を落とさぬままにホームに入線してくる電車の風圧を感じて、怖がるどころか、なんと東京というのはすごい都会なのだろうか、と目を輝かせていたからだ。そうして目を輝かせたからこそ、私はその後も東京に居着いたのかもしれない。何か疑問に思うことなどなかった。非難するというのなら、私はそうして目を輝かせた私をも非難するのが筋だろう。

改良工事中のJR渋谷駅/2023.5.3

 私は今、地下鉄の漏水対策を取材している。いつだって地下鉄に乗れば、漏水対策はないものかと、上を向いて歩いている。場所場所で実にさまざまな漏水対策があることに驚かされる。しかし、これも今が過渡期だからなのかもしれない。いつか、こうした漏水を完全に解決する方法が見出され、人の創意工夫による漏水対策は姿を消してしまうのだろうか。漏水対策などないのが当たり前になる日が来るのかもしれない。なくなってしまったものに思いを馳せ、なくなりつつあるものを収拾する、廃墟マニア的な趣味はない。だが、それでも漏水対策だけには惹かれるものがあり、なぜこんなにも惹かれるのかということを知りたくて、取材を続けている。
 2月に編集者の天野さんと一緒に地下鉄の駅を回った時には、なかなか漏水対策を見つけられず困った。結果的には見つけられたのだが、やはり冬場は少ないのではないか、とか、雨の量が重要なのではないか、などといった仮説を立てたりもした。それからも、地下鉄に乗れば、顔をキョロキョロと動かして、漏水対策を見つけては観察し、写真に収めてきた。
 何かの用で都心に出かけ、目に止まるものをメモにさっと書き留める。(a)ビニールシートで壁を覆うもの、(b)チューブをペットボトルで受けるもの、(c)通路の壁を左から右へ横切るもの、(d)吊り下げられたもの、(e)床が濡れていることを告げるもの、(f)バケツ、(g)堅いパネルでチューブをガイドするもの、(h)今しがた設置されたもの、(i)水を受ける器のないもの。

 場所も時間も異なる写真をずらりと画面上で眺めて、ひとつずつに驚いている。順当に行けば、それらを分類していくというのが調査や研究というものなのかもしれない。抜け漏れダブりなくMECE(ミーシー)にやってみせるのが現代の定石だろう。分類が得られれば安心もできる。だが、私は、地下鉄の漏水対策の分類で安心したいわけではない。いつか分類を完成させ、わかったような気になるタイミングというものがやってくるのならば、それをずっと遅らせたいとすら考えている。一つ一つに驚いていたいのだ。
 目にとまるものを順に言葉で言い表し書き留めていく。その時、思い浮かべていたのは、フーコーの『言葉と物』の冒頭で引用されるボルヘス「シナの百科事典」だ。いわゆる現代的な分類とは異種の、列挙の可笑しさを体が覚えていた。分類が当たり前でなかった世界と時代がかつてあった。だが、今、そうした列挙の心地よさに身を委ねて分類をやめてしまえば、科学的な立場を放棄したと見做されるかもしれない。それでも、何かを見つける時、最初には確かに一つ一つの発見があるはずであるし、私はその発見にこそ立ち会いたいと思う。完成した分類のチャートを手にするのではなく、チャートを自分で0から作り、発見し、それに迫られてチャートを絶えず更新していきたいのだ。
 ここで、私の好きな、というのも可笑しな話だが、一つの漏水対策を見てほしい。新宿三丁目駅の副都心線ホームと丸の内線ホームを直結するL字の階段通路にある漏水対策である。ゆるやかな階段とエスカレーターの壁を左から右へと横切るこの漏水対策を、私は勝手に「あらばしり」と名付けている。これほどの長さを荒々しく這う漏水対策は他に見当たらないからだ。それに、おそらく対策を設置した以降も、途中の壁から漏水が絶えなかったのか、ところどころ墨で何かを描いたように壁が黒く汚れていて、治まりきらない。まさに、あらばしりと呼ぶにふさわしい。

連絡通路を左から右へとわたる「あらばしり」/2023.4.11、新宿三丁目駅
同上

 もう一つ、半蔵門線渋谷駅のホームからハチ公改札に上がる階段の天井付近に設置されている漏水対策である。仮設の漏水対策とはいえ、チューブとそれを吊り下げるテープなどはしっかりと固定されていて、ぶらぶらと揺れたりすることがなく、それは鉄道の架線が空中に架けると文字の上では言うものの、ピンと張られていることに似ている。仮設でありながら安定感があり頼もしい漏水対策。私はこれを「渋谷のれん街」と勝手に呼んでいる。

きちっと吊り下げられた「渋谷のれん街」/2022.12.13、渋谷駅

 これらを名付けることができるのは、仮設の漏水対策が多少姿を変えつつも、基本的にはずっとそこに存在しているからである。あったりなかったり、あるいは場所や形が次々と変化しているのなら、いくら勝手にそうしているとはいえ、同一の漏水対策として、名付け、その名を呼ぶことはできないだろう。一旦名付けられると、常に意識に上るがゆえに、その変化にも自覚的でいられる。「あらばしり」に今日、水は流れているか、「渋谷のれん街」の吊り下げられたテープの本数は同じかどうか、などと。
 だが、名付けられると、物事は途端に流通し、面白がられ、そして瞬間的に消費されてしまう。私はこれらを面白おかしく消費してしまおうという気はない。また、その技術や工夫を手放しに賞賛したいのでもない。あくまでその名前は私がそこに意識を向けるための工夫だ。意識を集中させ、来るたびに観察すること、変化を知覚することを可能にしてくれる。その上で何かが見出せるのならば見出したい。めいめいが流通することのない名前をつければいい。

 さて、本腰を入れてフィールドワークをはじめることになった。これまでの私的なフィールドワークでは、何かの用があって地下鉄に乗る時に、「ついで」に観察しているに過ぎず、たまたま通りかかったところにある漏水対策を収集するものだった。言うなれば、「ついで」のフィールドワークである。そして、そのたまたま居合わせた場所に、見たこともない漏水対策があった。一期一会的な収集活動だった。今、私がやろうとしていることは純粋なフィールドワークということになる。そこでは、ただ地下鉄の漏水対策の収集のために地下鉄に乗り、地下鉄の中を漏水対策を探して歩き回る。「ついで」であれば、本来の用事によって乗り降りする駅やたどる通路などはあらかじめ決まっており、ちょっと横道に逸れるということはあっても、基本的にはフィールドワークの進展によって変わるものではない。ところが、純粋なフィールドワークにおいては、どこに見にいくのかというところから、私自身にすべてが委ねられている。それは喜ばしいことのようでいて、そうした自由ほど難しいものはない。自由には、ある種のセンスが求められるからだ。いったい、私はどこから見るべきなのだろうか。
 自由を前に、エイヤと決め切らぬ私は、ある日、こう考えた。そうだ、東京メトロのすべての路線と駅を見ればいいのではないか。つまり、シラミ潰しに見ていこうということだ。一旦、シラミ潰しにすべてを見てしまえば、私のセンスが問われることはないだろう。
 そもそも、全部を見てみればいいのではと思ったのには、経緯がある。何年か前に読んだ高野秀行『間違う力』に、高橋秀実『すばらしきラジオ体操』のことが書かれていたからだ。曰く、誰もが知っているが、深く考えたことのないラジオ体操というものに惹かれて調べていた高橋氏は「東京都内に二百六十二ヵ所ある年中無休のラジオ体操会場をすべて訪れ、朝六時半からの放送とともに、そこのみなさんと一緒にラジオ体操をやったという」(p. 137)のだ。年中無休のラジオ体操会場が都内に262ヵ所もあることが驚きだが、それを真に受けて取材する方法が面白い。いつか何かを真剣に取材するなら、こうありたいと私は思った。
 だが、同時にすべてを見ることへの懸念がないわけではなかった。以前に読んだ赤瀬川原平他編『路上観察学入門』で書かれていたことが記憶にあったからだ。考現学や路上観察というものは、新しい視点を得て何かを見つけ出すところに面白さがある。ところが、ローラー作戦というのか、片っ端から順に調査をするようになると途端につまらなくなる。例えば、学生アルバイトを使った集団調査などで、システム化してしまうとそれは顕著だ。そんなふうに赤瀬川原平と南伸坊が話していた。幸い、私は学生アルバイトを使ってはいない。しかし、まさに片っ端から順に見ていこうとはしていたのだ。そんなやり方ではつまらない結果になるぞと言われている気がした。
 それに、また昔、数学を研究していたころのことだが、ある研究会でとある数学者が発表者に向かって「証明自体はわかりましたが、それはすべての場合をシラミ潰しに調べていくという方法ですよね。何かもう少しスマートな、こうなんと言うか……、シラミ潰さない証明というのはないのでしょうか?」と言ったのが強く記憶に残っていた。
 すべてを見にいった高橋秀実、ローラー作戦で見ていくのはつまらないと言い放った赤瀬川原平、シラミ潰さない証明を求めた数学者。彼らはすべてを片っ端から見に行こうとしていた私を逡巡させた。すべてを片っ端から見にいくべきか、それとも見にいくべきでないのか。どちらが正しいのか。葛藤を抱えて考えあぐねているうちに、私はこう思い至った。三人の言っていることは別に矛盾などしていないのだ、と。
 まず、赤瀬川が言いたいのはこういうことだ。ローラー作戦的に観察をしていく時に、観察者は決まった視点で、予め決まった分類に当てはめていくことになりがちだ。それでは、せっかくくまなく調査しているのに、驚くべき発見などありえないということになる。また、数学の証明にしても、せっかく研究者がすべての場合をシラミ潰しに調べたのだとしたら、何かしらそこに証明を見通しよくし、思考の節約となるような、共通性や鍵となる事象の発見はなかったのか、シラミ潰しに調べた後でも、すべての場合を追う以外の証明はできないのか。件の数学者はそう言いたかったのである。
 では、ラジオ体操の場合はどうか。確かに、ラジオ体操の歴史を追うのに、本来は現在の会場をすべて回る必要などないのかもしれない。それでも、高橋はすべての会場に足を運び、そこで参加する人の話に耳を向けた。一つ一つに頷き、驚いた。そして、その驚きの中に、どうやらその後の調査へとつながる証言や発見があったようなのだ。ラジオ体操の会場をすべて回ることが問題ではないのである。
 つい、私たちは既存の目で物事を見、既存の分類の枠組みに当てはめてしまう。そうではなく、見て回る中で、既存の枠組みに収まりきらぬ何かを受け止めて、自らの目を変容させていくべきなのだ。

 前置きが長くなった。ガタガタ言わず、さっさとフィールドワークに出ろよ、という声が聞こえてきそうである。私はフィールドワークに出かけた。すべての駅を見に行くフィールドワークのはじまりである。4月11日の午後、どこに出かけたかと言うと、丸の内線の荻窪駅である。なぜ丸の内線を選んだか。古い路線だったからだ。古い路線の方が漏水がたくさんあるのではないかというシンプルな仮説を検証したかったのだ。
 しかし、荻窪駅で私が見つけたものは、仮設のそれではなく、常設の漏水対策だった。いや、これまでもこの銀色のパイプが壁にあることに気づいていた。だが、それが漏水対策だとは思わなかったのだ。我ながら情けないことに、仮設があるのだから、常設もあるはずという推論は働いていなかった。むろん、これまでの観察でも、こうした金属製の管が天井から地面に通っているのを見てはいた。だが、それは、例えば水道や電気ケーブルが通る管なのではないか、漏水対策ではないのではないかと思い込んでいたのだ。というのも、それらはさすがに常設だけに、漏水箇所を綺麗に覆い隠し、またその管の先はきちんと地中へと埋まっている。どこにも漏水の痕跡など見出すことができないようになっていたからだ。

天井から地中に通る金属の管。これではこれが漏水対策だとは気づかない/2023.04.11、荻窪駅

 だが、そうした金属製の管が漏水対策である証拠を見つけてしまったのである。これはホームではなく改札階にある通路の脇に並ぶものだが、この金属の管の先を虎テープを巻いたペットボトルが受けていた。しかも、ペットボトルの中に水を貯めるのではなく、頭と底を切り取ったペットボトルをひっくり返し、この金属の管の先を覆っている。水がそこから噴き出すのを防止しているようだ。よほど水が勢いよく噴き出すのだろう。そう気づいてまわりの同様の管を見て回ると、たしかに、水が吹き出した跡があり、あたりが白く汚れていた。常設された金属製の管はこれまであまり見てこなかったが、これも漏水対策なのだ。

通路の天井からつづく金属製のパイプの先にはペットボトル/2023.4.11、荻窪駅
同上

 荻窪駅の構内を歩いていくと、次々とこの金属製の常設の漏水対策が見つかった。そこに「漏水注意」の貼り紙があるところを見ると、おそらく常設の対策では対策しきらぬ漏水がしばしば顔を出すということだろう。脇には「MSF No.31 長手」、「MSF No.32 短手」などと書いたテープが貼られていた。

「漏水注意」の貼り紙/2023.4.11、荻窪駅
謎の記号「MSF」/2023.4.11、荻窪駅

 ここで考えなければならないのは、「MSF」のことである。唐突に、「MSF」とは? と読者は思うかもしれない。実のところ、私も「MSF」が何かを知らない。けれど、これまで観察してきた仮設のビニールのチューブやシートなどで作られている漏水対策の多くには、「MSF」の記号が付されていた。今、金属製の管にも同じく「MSF」の表記がある。この金属製の管が別の用途の配管ではなく、漏水対策であることの証ではないだろうか。ふと気になってその日、新宿三丁目駅で見かけた天井から地中へと通る金属製の配管(それが漏水対策かどうかは確証なく撮影していたものだが)の写真を拡大して確かめてみた。そこには案の定、「MSF」の文字があった。あれもまた漏水対策だったのだ。

天井から地面へと続く金属製の管の脇にもあった「MSF」の記号/2023.4.11、新宿三丁目駅
同上

 その後も荻窪駅構内を、常設の金属製の漏水対策を見て回った。そこには、「MSF」の記号とナンバーが付いていた。ふと疑問に思った。このナンバリングはどこから始まるのか。荻窪駅にNo.1~32までがあるのか?

「検査済」のテープはいたるところに/2023.4.11、荻窪駅

 壁を見るとあちこちに太くて白いビニールテープが貼られていて、そこには「検査済」の文字とともに、「2021.12.15」などと書かれていた。この日、荻窪から新宿駅までの間のいたるところに発見され、概ね同じような日付であった。丸の内線のこの区間を、順に検査していったということなのだ。確かに検査はしている。
 だから、どうなんだということではある。この時点ではこの「検査済」の記号が意味するものも私にはわからない。とはいえ何かしら重要な痕跡であるかもしれず、私は意味を保留したまま、とにかく写真に撮り、そして記号や日付をメモしていった。
 荻窪は常設だけなのだろうか。古い地下鉄路線だから、漏水も安定し、漏るところは漏り、漏らないところは漏らない。漏水箇所は基本的にはすでに常設化されているのかもしれない、などと推理しながら、ホームに戻った。変な話だが、そこで一つ、ビニールにチューブ、それをペットボトルで受けるよくあるタイプの仮設の漏水対策を見つけた時にはちょっとホッとした。

蛍光灯の脇から漏水はビニール製のチューブを通りペットボトルへと注ぐ/2023.4.11、荻窪駅

 写真の撮り方も、きちんと決めずにスタートしたが、駅に着いたら駅名標を最初に撮るのがいいと気づいた。そうしておけば、どこからがどの駅の漏水対策であるのか、後から一目瞭然であるからだ。子供の頃に、近所でやっていた道路工事で、現場監督者が工事内容を書いた黒板を工事箇所の前にかざして写真を撮影しており、私もあれをやってみたいと思ったことを思い出した。

2023.4.11、南阿佐ヶ谷駅
謎の記号「FAM」の出現/2023.4.11、南阿佐ヶ谷駅

 南阿佐ヶ谷駅の改札を出て、出口へ向かうと、割と大掛かりな漏水対策が天井から降りていた。そして、そこには「FAM21-02734/21-7-7」とあった。今度は「FAM」だ。おそらく設置されたのが、2021年7月7日で、その記号が「FAM21-02734」なのだろう。2021年に設置された2734番目のFAMということか。しかし、このFAMとは何か。そして、MSFとはどう違うのか? わからない。わからないが、MSFとならび、漏水対策にはこの記号FAMが付される。

漏水対策は途切れている/2023.4.11、南阿佐ヶ谷駅

 南阿佐ヶ谷駅の出口付近にある虎テープで囲まれた漏水対策は、漏水箇所を受ける部分はあるものの、それが空中で消滅していた。あれはどういうことなのか。漏水が起これば、下に受け側の対策をいつでも付け足す用意があるということなのかもしれない。一度見ただけ、漏れてない時に見ただけでは、わからないことがある。

「MSF」発祥の地?/2023.4.11、新高円寺駅

 新高円寺の駅まで来ると、かなり時間が経っていた。電池も残り半分。ちょっと疲れはじめていたが、ホーム上に「MSF No. 1」を見つけた時には、何か当たりを引いたような気がして、テンションが上がった。これが荻窪まで続くナンバリングの最初なのかもしれない。MSF発祥の地。興奮しながら、上下線を結ぶ連絡通路の階段を降りて行った先で、大変大掛かりな対策を発見した時には声を出してしまった。プラスチック製の太い管(何か、エアコンの室外機のダクトを彷彿とさせる)が壁の梁を伝うようにしてずっと続いており、梁に虎テープで留められている。それだけではない。その上をビニールシートが覆い、そこからの漏水を受ける管が出ていたのだ。そこには、「FAM」ばかりか、これまで見たこともない記号「MK-⑦」、「MSK-③」、さらには「2021.8.6/21-03735」と書かれた大きなパネルが漏水が絶えないとおぼしきタイル張りの壁に設置されていた。「MK-⑦」の上を見ると、「FAM20-03735」に加えて、「②FAM 代20-00508 変更」ともあった。

見慣れない記号のオンパレード/2023.4.11、新高円寺駅
同上

 ここまで、大抵の漏水対策は出口か改札の外の通路にあった。ホームには漏水対策はあまりないものだなと残念に思っていた。だから、新中野駅のホームに降り立った途端、天井から吊るされたチューブが目に止まったときは、とてもうれしかった。何より私が感銘を受けたのは、ここに水滴の粒があったからだ。漏水対策はあっても実際に水が流れるところ、器に水が溜まっているところはなかなか見られないのだ。

ホームの天井に吊るされるチューブ/2023.4.11、新中野駅
チューブに水滴があった!/2023.4.11、新中野駅

 それからも各駅で降りては観察し撮影とメモを繰り返した。半日あれば、終点の荻窪駅から、もう一方の終点である池袋駅まで、とは言わないまでも、都心の東京駅くらいまでは見られるだろうと高を括っていた。だが、この安易な計画にあっという間に頓挫してしまった。当初は全部を見るなんて、とか、筋のいい周り方が必要では、などと考えあぐねていたが、全部まわろうとしたところで、とても全部など回りきれないという事実にようやく私は気づいた。
 夕刻も近づき、最初は通学する高校生で混み始めた電車は、やがて通勤客で混雑しはじめた。新宿に着く頃には、電池もほとんど残っていなかった。問題は混雑や電池の残量だけではない。当の私も、何時間か観察して回ると、くたくたで、しゃがみ込みたいくらいだった。地下鉄の漏水対策のために、まずは筋トレとジョギングを課し、体力を付けなければならないだろう。こんなに長時間、ずっと天井を見上げながらいると、首が痛くなる。首は痛い。それでも、上を向いて歩こう。

(つづく)


【参考文献】
(1)ミシェル・フーコー/渡辺一民+佐々木明 訳『言葉と物――人文科学の考古学』新潮社、2020(新装版)
(2)高野秀行『間違う力』角川新書、2018
(3)高橋秀実 『素晴らしきラジオ体操』草思社文庫、2013
(4)赤瀬川原平+南伸坊+藤森照信 編『路上観察学入門』ちくま文庫、1993

連載趣旨
数年前、駅でたまたま目にした地下鉄の漏水対策に心を奪われた著者。この光景は、どのように私たちの前に現れるのか。なぜこの光景に、ここまで心惹かれてしまうのか。実際に歩きながらその理由わけを考える、友田とんによる極私的なフィールドワーク連載。

注記:写真はすべて著者が撮影したものです。鉄道の安全運行の妨げや利用者の通行の迷惑にならないよう、細心の注意を払っておこなっています。利用者の写り込みにも極力気を付けていますが、漏水対策の全体像を記録するためにどうしても避けられない場合は、ぼかしを入れました。

著者:友田とん(ともだ・とん)
作家・編集者。ナンセンスな問いを立て日常や文学に可笑しさを見つける文章を書く。 代わりに読む人代表。京都府出身、博士(理学)。2018年に刊行した自主制作書籍『『百年の孤独』を代わりに読む』を全国を行商して本屋さんへ営業したのをきっかけに、ひとり出版社・代わりに読む人を立ち上げ、独立。自著『パリの ガイドブックで東京の町を闊歩する1・2』のほか、『うろん紀行』(わかしょ文庫 著)、『アドルムコ会全史』(佐川恭一 著)、文芸雑誌『代わりに読む人0 創刊準備号』を編集・刊行。 著書に『ナンセンスな問い』(エイチアンドエスカンパニー刊)、『ふたりのアフタースクール ZINEを作って届けて、楽しく巻き込む』(共著・太田 靖久、双子のライオン堂刊)。敬愛する作家は、ガルシア=マルケス、後藤明生。