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ボムとポストイット|巨大都市殺し|高島 鈴

 二〇二一年の暮れのことである、と書き出せば過去らしく見えるので、そのように書く。二〇二一年の暮れのことであった。私は交際相手との破局に直面していた。理由は明快、私は誰とも結婚したくないと考えており、相手は誰かと結婚することを望んでいたからだ。二人のやりたいことは単純に食い違っていた。この齟齬が解決不可能だとお互いが理解したとき、われわれは友人へと戻った。
 はっきり言えば悔しかった。この際、元交際相手はむしろ関係がない(私は相手にいっさい悪感情を持っていない)。私の中に湧いていたのは社会制度に対する怒りである。ただ人間同士が個別の紐帯を結び、思い思いに関係していればいいだけなのに、国家は市民に親密圏を申告させ、お墨付きを与える。かくして人間関係には、公的な承認を得たもの/公的な承認を得ないもの、という二項対立が生まれ、前者が後者に優越するかのような言説が罷り通る。社会保障は公的な承認を得た関係性に対して付与され、ここでも大きな格差が生じる。国家は人間の再生産が見込める(と国家の運営者どもが信じ込んでいる)異性愛「家庭」の加増を望んでいるから、非婚者には結婚せよと圧をかけ、婚姻制度利用者には子どもを産むよう要請し、行政上同性に当たるカップルは公の承認から排除する(同性パートナーシップ制度によって得られる社会保障は婚姻に比べてはるかに軽微である)。このような情勢下で生きているからこそ、多くの人は婚姻を目指すよう誘導される。そこに当人の喜びがあるとしても、婚姻制度とは国家支配の一形態に他ならない。私は絶対にそこに迎合できない、しかし、そうではない人の方が多数派であるらしい……ここに書いたことは全て以前からわかっていたことで、私はずっと前から婚姻制度と衝突し続けていたのだけれど、「破局」という具体的な出来事として眼前に現れると、やはり精神に堪えるのであった。
 私がわかりやすく荒れていたころ、偶然ストリートアーティストの友人から電話があった。電話の内容はフェミニズムに対する意見交換であり、私はいくつかの話題を提供して、友人はそれを面白がって聞いてくれた。
 会話によって少し気が晴れたところで、私は「少し時間ある?」と聞いて、自分の身に起きた別れについて語った。マジで悔しいよ、という私の詠嘆を、友人は「そりゃつらいね」とじっくり聞いてくれて、「そういうのってボムるといいよ」と言う。
 「ボムるって何?」
 私がそう尋ねると、友人は詳しく教えてくれた。ボムというのは、ステッカーに自分の主張や名前を描いて、街に貼り付けていくゲリラ行為のことだ。よく電柱などに不思議なシールが貼ってあるのを見かけると思うが、あれがまさにボムなのだという。
 「それやるよ。婚姻制度反対って描いて街に貼ってくる……」
 私はそう決意表明をし、友人に励ましてもらって電話を切った。
 悔しい、悔しいよ。悔しいからこそ、この殺意は街へ解き放つべきだと思った。私の中だけに殺意を留めておけば、それはいずれ回り回って私の首に手をかけるだろう。だがそれを、街の侵蝕に用いればどうか? 誰かが電柱に貼り付けられた私のメッセージを見て、そういう考え方もあるのか、とふと思ってくれるのではないだろうか? そのように他者の中にひっかかりを残していけるなら、私の殺意はいずれ違う形となって私を追い詰めるものを壊してくれるのではないか?
 私はそれからドン・キホーテに行き、無地のシールを買った。世の中の無地のシールというものは、「きれいにはがせるタイプ」を売りにしている商品が人気であるらしく、それしかなかったのでそれを選ぶ。何十枚か入ったそのステッカーに、私はマッキーで素朴に文字を書き入れていった。「婚姻制度反対」、「家父長制粉砕」、「国家解体」。時折余計な線を足してみたり、四角く囲ってみたりする。そうやってだいたい六〇枚くらいのシールを用意し、カバンに入れた。出先の街角で、人目を盗んでこれらを貼っていく。
 ボムは楽しかった。街を見る目が変わる。基本的に公共物を選んで貼るから、ガードレールや電柱をよくよく見て、シールを貼っても剥がれなさそうな平面を見出す。目が慣れてくると、だんだんシールを貼り易い場所がどこなのか見えてくる――すべすべした平面で、手の届く場所。そういうところにはすでに他のシールが貼られていたり、グラフィティが小さく描かれていたりして、先人の足跡を辿る面白さがある。あたりを見回して誰も見ていないことを確認して、すっとポケットからシールを剥がし、貼り付けて歩き去る。街に突如現れる「国家解体」。気持ちが良かった。いずれ「きれいにはが」されるにしても、束の間の侵略は成功している。ごくわずかでも、確実に。
 のっぺりとした都市の素肌に、私なりの殺意を突き立ててゆく。もちろん誰の目にも止まらない可能性もあれば、すぐに剥がされる、ないしは剥がれる可能性もある。それでもよい。重要なのは街を侵蝕することだ。クソつまらん電柱を、誰かが立ち止まる場所に変えていくことだ。ボムは「迷惑行為」認定される場合も多かろうし、実際に器物破損で訴えられる可能性もあるし、この文章を読んで「このライターは迷惑行為をしている!」と思っている読者もおそらくいるだろう。だが整った「正常」な秩序に追い詰められている者がいる事実を、公共空間に暴く行為には、間違いなく意味がある。どんなに小さくとも意味がある。その意味を剥奪するのが法律の役割であるとは、私は絶対に思わない。

 ボムを始めてから、ある行為との共通点に思い当たった。ポストイットだ。
 性暴力の事件現場に、性暴力に反対するメッセージを書き込んだポストイットを貼る。この小さな抵抗は、二〇一六年に韓国・地下鉄カンナム駅付近の公衆トイレで起きた女性殺人事件をきっかけに始まった[1]。犯人の男性は女性が自分を見下していると考え、女性を狙って犯行に及んだとされており、女性に対するヘイトクライム=フェミサイド(女性嫌悪殺人)ではないか、という議論が巻き起こったのである。事件後、江南駅の壁は追悼と抗議のポストイットで埋め尽くされた。貼られたポストイットは、ソウル市女性家族財団に保管され、書籍化もされたという。
 影本剛によれば、江南駅殺人事件から生じたフェミサイドの議論は、「フェミニズムが実践してきた言いなおし(Relabeling)の闘い」[2]でもあった。確かに私は、「フェミサイド」という言葉を江南事件の報道で知り、目から鱗が落ちるような思いで聞いた記憶がある。この事件が表面化させたのは、何よりもこれまでフェミサイドであると見做されてこなかった女性に対する暴力の問題であり、一連の抗議運動は不可視化されてきた暴力の歴史に光を当てる行為だった。女性を一方的に恨んだ人物が、女性に暴力を振るう。レベッカ・ソルニットの言葉を借りれば、「それを、真の名で呼ぶならば」[3]、「フェミサイド」だったのだ。影本は加えて、「(…)これらの試みを単に『新しい動き』として脱歴史化させるのではなく、韓国における『慰安婦』問題の解決をめざす運動の蓄積と関連させてみることもまた、必要である」[2]とも述べている。フェミサイドと名指されて初めて、事件は系譜を持ち、暗がりから歴史の姿をとって浮上する。
 列島社会にも、フェミサイドに対する抗議のポストイット運動は波及した。その嚆矢が大阪メトロ御堂筋線中津駅である。二〇一九年、四二歳の男性が一八歳の女性に対して電車内で性暴力を振るい、さらに中津駅のホームで強制性交に及んだのだ[4]。事件が公表された二〇二〇年、中津駅には性暴力に反対するメッセージ入りのポストイットが貼られるようになった。
 また、二〇二一年には小田急線内で無差別殺傷事件が起きた。事件を起こした男性は、「勝ち組の女性やカップルを標的にした」「6年ほど前から幸せそうな女性を見ると殺したいと思うようになった」と供述している[5]。このことから事件はフェミサイドであると見做され、小田急線祖師ヶ谷大蔵駅に抗議のポストイットを貼る運動が展開された。江南駅殺人事件のポストイットが保管された一方で、こちらのポストイットは撤去されてしまったようである。
 場所に主張を残して去っていく。ボムとポストイットでは、もちろん動機も手法も異なるのだけれど、場所を侵食するための運動である点は似ているように思う。ここでもまた「迷惑」という言葉が頭をよぎる。実際、「フェミサイド ポストイット」で検索すると、すぐに抗議運動を「迷惑行為」「器物破損」と断じる記事が見つかる。「迷惑」は運動を阻害するために幾度となく使われてきた便利な言葉だ(例えばカウンターデモが起きるたび、「道路交通法違反の迷惑行為だ」と騒ぐ人が絶対に出てくる)。一体それは誰にとっての「迷惑」なのだろう? 、問題はそこではないのか。ボムとポストイットは都市のはざまに浮かび上がる誰かの叫声である。たとえすぐに剥がされてしまうにせよ、剥がした人の手の中に残る切実な言葉の破片が、いつか大きな秩序の倒壊に力を貸す可能性を、私は希望であると断じる。


【注釈】
[1]「『女性蔑視に基づいた暴力』に懸念、無差別殺人事件で 韓国」『AFP BB News』二〇一六年五月二四日(最終アクセス二〇二二年二月一七日一一時)
[2]「韓国現代思想と運動の諸断面 第1回/影本剛」以文社、二〇二一年六月二一日(最終アクセス二〇二二年二月一七日一一時)
[3]レベッカ・ソルニット 著/渡辺由佳里 訳『それを、真の名で呼ぶならば』岩波書店、二〇二〇年
[4]「駅のホームで強制性交 社会は痴漢と向き合ってきたか」『朝日新聞デジタル』二〇二〇年六月二三日(最終アクセス二〇二二年二月一七日一一時)
[5]「小田急線刺傷 36歳男逮捕『勝ち組の女性を標的に』『乗客が逃げ惑う光景を見て満足』 無差別殺傷を計画か」『東京新聞 TOKYO Web』二〇二一年八月七日(最終アクセス二〇二二年二月一七日一一時)

連載『巨大メガロ都市ポリス殺し』について
本連載は、人を管理し封じ込めようとする、あるいは周縁化し排除してかかろうとする巨大秩序=メガロポリスの暴力に抵抗するため、個別具体的テーマから都市に対する〈殺意の言語化〉を試みるものだ。われらはいかに都市に叛き、いかに都市の侵蝕を図りうるのか。巨大メガロ都市ポリス殺しの武器はそこらじゅうに転がっているはずである。

著者:高島 鈴(たかしま・りん)
無所属のライター・編集、アナーカ・フェミニスト、社会史研究者。1995年生。Twitter:@mjqag