小満

あー 海に行きたいなあ

と朝起きて思った木曜日。近場の海ではなく、もっと遠くの九州とか、あっちの方。
別に嫌なことがあるわけでもない。
会社に行くのも正直そこまで憂鬱ではない。自分のペースで仕事を回せるようになって、職場の人との関係も良好で。1日はあっという間に終わる。

ただなんとなくうっすらと感じるのだ。
自分の感覚が濁っていくような焦燥感が。自分の中に流れている細い川のせせらぎが聞こえなくなる様な気持ち。
もしくは、年齢、社会という枠組みにじわじわと四方から追い詰められているような感覚がする。
結婚とか女性として歳をとることとか、そういうもろもろの手垢のついたトピック。
そんなものは本当は無く自由なんだと考えられれば普通に楽だが、そういう訳にもいかない。
もしくは、そういう訳にもいかないと思いこまされている。

でもまあ、この話は今はしない。しようと思えばいくらでもできる話ではあるが、それらは然るべき時に然るべき方へ進むだけだと思う(楽観過ぎてもちにおこられそう)。

そんなわけで最近は、俳句歳時記をパラパラとめくっている。
歳時記は簡単にいうと、季語がまとめられた辞典のようなものである。四季ごとにわかれ、その中でもまた時候、行事、植物 などに分けられている。
といっても、私はそれを見て俳句を作っているわけではない(作りたいとは思っている)。

歳時記の何がいいかというと、ばーっと並べられた季語をただ何となく眺めていると、その間だけは色んなもろもろを忘れてトリップできることだ。
簡単に言えば現実逃避。でもこの方法は私的には割といい逃避方法だと思っている。
言葉を知っていると、日常や風景に対して視点のディテールが増える。それに付随して感じ方がこれまでとほんの少し変化する。

そういったことに少しずつ意識を分散させ、うっすらと救いを求めながら日々を過ごしている。

稚拙ながら1句詠んでみて終わりにします。


地下鉄で 眠りて見るは 卯波かな



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