誤解の呪い
誤解。
裏目。
齟齬。
藪蛇。
人生で何度繰り返してきただろう。
幼い頃から数え切れないほどしてきた失敗。
小学生の頃なんかはイジメてもイジメられてもいない側なのに、余計なお節介からイジメられている子を傷つけてしまった過去がある。
なんなら僕自身のトラウマになっている。
彼はその後イジメていた側の子とも仲良くなった。
あの頃なんかなかったみたいに。
小学生のイジメなんてそんなものらしい。
ただ僕だけは彼に嫌われたまま。
大人になった今も嫌われているらしい。
誤解なんてのは大人になってからもある。
むしろ大人になってからの方が怖かったりする。
大学生の頃、数年間片思いしていた人がいた。
好きな人と話す時って意識しすぎて深読みしちゃうことあるよね。
嫌われたくないし、好かれたいし、できれば笑顔になってほしいし。
けどそのせいで僕は幾度となく効率的に相手の地雷を踏み抜いてしまいめちゃくちゃに嫌われていた。
気が狂うかと思った。
周りの友人が仲裁してくれたりもしたが、事実相手が受けた印象は変えられない。
誤解とは「誤解された時点で負け」なのだ。
理性的、思慮が深い、論理的であるなど、人間関係でちゃんと頭を使うことができる人は、誤解をちゃんと誤解として考えを改めてくれることはある。
元々存在しなかったのだから。
しかしそうではない人は「誤解の感情を持ったまま新しい情報を保存する」という思考が多いように感じる。
また困ったことに、どうやら人類にはこっちの方が多いみたいだ。
「自分の感情を切り離して判断する」というのは意識的に訓練しないと難しいだろう。
僕自身も二十歳辺りまでできなかった。
事実と感情がごっちゃになっていると冷静な判断ができなくなるので、生きていくためには重要なスキルだと思う。
これを持っていないと至る所で摩擦が起きる。
もしも貴方にどちらも心当たりがないのならば、もしかすると周りの人が我慢してくれている可能性もある。
さて、これらは「誤解が間違いだった場合」の話。
問題は「自分にはそうした意図はなかったけれど、相手を不快にさせてしまった」という場合。
この場合は少し話が変わってきてしまう。
相手の立場になってみよう。
先程の『○○というのは誤解で存在していなかった』だった場合は「ああそうなんだ!じゃあ怒る必要もなかったね!」で済む。
存在してないから。
ではなく不愉快にさせてしまった場合は「貴方にその意図はなくても私は不快になった」と言えてしまう。
というか不快になった時点でその人は「怒りに気づいてしまう」のだ。
これを後から『僕の言葉にそんな意図はありませんでした!』と言ったところで「後からならなんとでも言える。許されたいだけでしょ」と思われることだろう。
たとえ相手が大人の対応として口に出さなかったとしてもそうした不満・不安は胸中に残ってしまう可能性もある。
これらを防ぐことは僕らにはできない。
人と人とが関わる時点でどこかで必ず誤解は生まれる。
ただし「傷つけたくないから発言をしない」というのは確実に間違いだ。
「傷つけてしまったら謝る」がやはり正解だと思っている。
嫌われることも怒られることも悲しい。
だけど本当に悲しいのは「自分の言葉で誰かを傷つけてしまった」ということ。
ちゃんと謝ったとしてもそれが届く保障はない。
そもそも言葉は100%は届かない。
もしかしたらその後もその人の古傷となって、人生の至る所で足を引っ張るかもしれない。
治らない傷を残してしまうかもしれない恐怖。
それが一番怖くて、悲しい。
僕は少しだけマシになったけれど、無闇に話せるほどじゃない。
君はもう笑い話にできているだろうか。