ひげ

パートから帰ってくると、三角コーナーの白いネットにおたまじゃくしが引っかかっていた。
体長は5ミリにも満たない、細くて黒い糸。先は少し丸くなっている。

これは夫のひげだ。
私は焦った。夫に先を越されてしまったと思った。

「ちょっと！　私というものがありながら、ひげ抜いちゃったの⁉︎」
「違うよ、それは鼻毛だよ」
「なんだぁ〜。脅かさないでよ」

在宅勤務で一日中家にいた夫は、私がパートの間に鼻毛をキッチンで抜いたらしい。ひげだったらどうしたことか。
私はピンセットを持って、夫の口元に迫る。

みなさんが夢中になることは何だろうか。仕事でも、趣味でも何でもいい。
私は長らく夢中になれることを見つけられなかった。
絵も楽器も運動も全部三日坊主。今度こそと思ってスクールに入会しても、仕事帰りや休日に通うのが面倒ですぐやめた。やめるのを億劫に思って、放置していたことすらある。思いつきはいいのだが、何にも続かなかった。

そんな私にも、結婚してからというもの夢中になれるものができた。しかし、これはあまり人には言いがたい。一般的な趣味ではない。これは変態の領域に属することなのではないかと思っている。
最初は夫も愛情表現と思って受け入れてくれていたのだが、最近は私の熱中ぶりに困惑している感じがする。
ただ、この機会に私は私の中にたまった熱をぶちまけてしまいたい。

私は夫のひげ抜きに夢中だ。
理解できなくて結構。笑い飛ばしてもらってもいい。
きっと男性ならわかるだろう。あの、ぷすっというか。すぽっというか。いや、すっ…でもいいかもしれない。ひげの抜ける快感を。
女性ならちょっと太くて、抜いても痛くない場所の眉毛だと思ってもらえばいい。コシのある毛をピンセットでつまみ、皮膚を抑えて、クイっと引っ張った時の、毛根がでろりと出てくる感覚がいいのだ。

夫が極端に毛深いというわけではない。伸ばしているわけでもない。刈り頃はひげそりから1〜2日経ったひげだ。チクチクして、子どもが嫌がるあのひげを私は毎晩抜いて快感を得ている。

初めは夫がカミソリではなく、ピンセットでひげを抜いているのを見たのがきっかけだった。男性がひげを抜いているのを初めて見た。
夫は鏡を見ながら、リズミカルにスポスポ抜いて行く。ひげは釈明の余地もなく、あごの下から鼻の穴までとめどなく刈られていく。
あんなに太いのだから、当然抜いたら痛いと思っていた。聞くと、鼻毛と鼻の下は痛いそうだが、あご周りは痛くないらしい。
私は夫自慢のピンセット改め、ひげ抜きを借りて、あごの先端に生えたチクチクして忌まわしいひげを抜いてみる。
伸びているので掴むのは簡単だ。痛そうだから、ゆっくり引いてみる。ひげからカチっというような音がした。見ると、ひげが切れている。

「違う違う、こう」
夫がひげ抜きを持って、毛の流れと逆らって抜く。抜ける瞬間を見ていると、毛根が出てくる瞬間にプツンという音がしているように感じる。なんだろう、この不思議な感覚は。
切れた時は音がしたが、抜けた時は音はしていないのだ。ひげは静かに一生を終えている。なのに、抜き方次第で、プッツンという音がしたり、ぷすっという音がしたり。
コツがわかると私もスイスイ抜けた。引き抜いた時の手の感覚、視覚的に捉えることのできる毛根の大きさに快感が止まらない。

私は毎晩夫にせがむようになった。ひげ抜きを。
夫にはスマホゲームをやったり、動画を見たり、毎晩の暮らし方がある。私は視界の邪魔にならないように気をつけて、横から下から、夫のひげを抜く。30分くらい抜き続けていると、夫の首回りはおぞましいほどのひげが散乱し、アリの大群に襲われているのかのよう。もう夫の目を見つめるより先にひげを見てしまう。

動いたり、くしゃみをする夫の動きに合わせてどのくらい抜けるか。
お風呂が沸くまでの15分間で、どれだけ抜けるか。

毎日私なりのルールを設けて取り組んでいる。
最近のブームは、黒い点になっていてまだ抜き頃じゃないように見せかけた毛を、掘り起こして抜くことだ。これをマスターすると、見栄えもいいし、触った時にどこもチクチクしない。時間はかかるが、達成感が素晴らしい。

いくらひげ抜きのよさを伝えても、理解してもらえないかもしれない。
けれど、これまで達成感なんて何にも感じたことがなかった私が、初めて感じた達成感なのだ。
怒られたり、けなされたりするのが嫌で何もできなかった私が、自分でルールを決めて取り組んでいる。しかも、毎日。

これが趣味か！

もし、私のように何にも興味を持てない人がいたら、ひげを抜いてみてほしい。
達成度合いに誰も怒ったりしないから。ゴールなんてなから。正解もないから。何度上手くいかなくても、毎日生えてくるから。
自分が満足すれば大丈夫。