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亀の歩み稽古日記

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舞踏家 由良部正美さんのもとで、踊りの稽古をしています。その中で思ったこと感じたことを、溢れるままに日々綴っています。良かったら、ふらりと覗いてみて下さい。
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#稽古照今

亀の歩み稽古日記~自主練編9/1-9/13~

9月に入った。 ずっと水をやっている。水になりきれない不自由さを見つめて。 8月の自主練で気付いたことは、 腰と胸を使っていなかったということ。そしてそれら間接や筋肉を柔らかく動かすには、情動を感じるということの大切さ。おもにハートで!そうハート、、、自分の中で、この「ハート」というワードが一番わかりやすいから使ってる…。 情動と動きとの対話なんだろうなぁ。カラダが情動に開かれるというのか。その両者に対話が生まれるということ。 9月に入って、どんな感じかというと、、。

亀の歩み稽古日記~自主練編8/14-8/31~

・ずっと気になってる不自由さがあった。水の動きの中で。そして今日、当たり前のことに気がついた。それは、、このカラダには腰や胸があるんや…!!ということ。 …驚いた…何故なら腰と胸を殆ど使ってなかっ たから。水は “情動と共に” なんだけど、どうも不自由を感じていた。私の場合、それは腰や胸や関節の多くが眠っていたことが大きいんじゃないか。意識が通ってないということ。対話をスルーしていた。 カラダだったのだ、、!!これ。色んな動きが眠ってる。不自由さの謎のひとつ。 なんて不器

亀の歩み稽古日記~7/29~8/7

7/29 宿題が出た…。情動からどうやって闇に、感情になるのか。 8/4 宿題。…以下自分の考え。 …抜けることとの関係は?流れから居つきになるには。闇に間はない?…情動は常に対話があって動きと共にある。遍在する眼差しを感じる。それが闇に入るということは、、見るということが変わる?全てを見ていた眼差しから、思考のみを見ることへ。思考に止まる。間(ま)とは似ても似つかない。思考に止まると感情が肥大する。居付くから。情動、間と共にあったカラダは、思考、感情一色に染まる。感情の

亀の歩み稽古日記 7/8~7/31

7/8 慌てないで。勝手に動いているから。ゆっくりという意味ではなくて無意識に勝手に先に動かないようにという意味。間。眼差し。内も外も見ている。動きも情動も。 7/10 動きが先走っている。勝手に動いている。情動とずれている。わかる? 7/11 どんどんもっと深く対話していく。ここまで、という限界はない。 7/11 味わって余韻みたいなもの。間に繋がる 。 情動と動きとの対話を深めて。 間は広がり。石になる、石の踊り。見ることで空間が変わっていく。重力にカラダは委ねてい

亀の歩み稽古日記~無題~

「踊るって何だろう」まいど巡る…いつもいつも実感を探しているんだろう。カラダに問うてみる。そして対話を見つめる。 「対話、それ自体が踊り」という言葉。 エネルギーの波、粒々、を体感すること、見つめていくことが喜び。踊る喜びに触れる、そんな瞬間を少しでも沢山味わいたい。掴めそうで掴めない大切なもの。歯がゆさと、喜びは、紙一重。…意識の層を感じるよ。私達はあらゆる層を生きているのだな。自由にも不自由にも往き来してしまう。ままならぬ…。でもそのままならぬものをも見ていくこと。

亀の歩み稽古日記~6/19-7/3のメモ 言葉の風景

【稽古での言葉】命ある言葉の意味をカラダに取り込み、その世界観を創造する。。その段階に行こう、今すぐ。亀さんよ。 ・7/3 腕が肘が何故そんなに固まっている?胴体を通っていないから。 胴体を通らないと全体に意識が通らないんだろな、、 見えない流れを感じて。(心開いて聞いて。大事なことばかり語られているのだから。目の前の世界に心開いて。感情的になって閉じないで) 空気から水、もっと工夫してみて。手はあまり重要ではない。少しの腕の広がりでも満ちることができるはず。エネル

「黄泉の花」「舞踏館」への思い。続々・由良部正美さんへのインタビュー

京都舞踏館にてロングラン公演されていた 「黄泉の花」への思いについて語られています。舞踏館という空間についても。(本当に貴重な場所でした…) ・「黄泉の花」は、どのような思いで創ったの ですか? ーーー 花、というのがひとつあるよね。花の存在。花は植物の生命のひとつ。根っこができ、茎がのび、蕾ができ、花が咲き、種ができる。花というのは、植物の過程の中では一瞬というか、短い生命のひとつでしかないかも知れないけど、成長の時間の過程の中で、そこに開いていくというのは、何か

由良部正美さんにとって舞踏とは何か。インタビュー!!

少し前(2年程)になりますが、舞踏について由良部さんにインタビューした内容です。 ・由良部さんにとって、舞踏は何ですか? ーーー 舞踏は、この世の踊りではない。で、この世の踊りではないということはどういう事かというと、魑魅魍魎とか架空のものではなく、まさに私達1人1人のカラダがこの世のものではない。少なくともこの世を超えている、という事。「今、ここ」という事が、この世を超えているという事を表していて、そういうものの現れとして、舞踏はある。 あと、舞踏が日本で生まれた背景

白塗りは何故するのですか?続・由良部正美さんへのインタビュー

インタビューの続編。 ・白塗りは、何故するのですか? ーーー 白塗りっていうのは、普通化粧というとね、化粧によって、1人の限定された個人のカラダが何かになる、変身願望みたいなものとして化粧ってあると思うんだけど、舞踏において白塗りっていうのは、むしろ、そういう限定された個別のものを脱ぎ捨てる行為としてあるんだと思います。 僕だったら、例えば60歳の男性で日本人で、とかそういうものを脱ぎ捨てる行為としてある。その方が受け取ってもらいやすい。 男♂でも女♀でもない、性別を超

亀の歩み稽古日記 ~闇を通じて日常と稽古を往来する~

稽古が日常に入ってくる。 感情の闇の渦中にいる時、稽古での闇の話を思い出していた。さて、どうする。さあ、どうしよう。今まさに。 感情のことは、稽古では居つく、といい、流れている情動とは区別している。情動に入っていく時は、カラダを開いて感受してゆき、どこへでもどこまでも流れていく、預けていく。深く開いていると、情動の流れの中に居るな、と感じることができる、まれに。 では感情に入っていく時は? そこには、探る、という方向性があった。カラダを開いて感じていくのとは違い、まるでカ

亀の歩み稽古日記~踊る状態を想う~

踊る状態について問われ、明確に答えられなかったな…と思い、しょぼんとした。何故かというと、そのあと師匠の話を聞いてハッっとしたからだ。 「対話があるということなんじゃないかな。どんなに小さな動きであっても、対話があればいつも新鮮に感じることができる。それは学ぶという事でもあり、理解する事でもある。理解が踊りになるということ。面白いよね。愛もそう、理解があるところに愛があるでしょ。」 それが踊る状態。…何度も聞いている話のはずだが、、、そう、やっと “ ハッ” とした、、ぼ

亀の歩み稽古日記~感情と闇~

情動は…流れ、感情は…居つく。 稽古ではずっと、“情動” を大事にして取り組んできている。水のカラダは情動と共にある。情動は常に滞りなく、どこにでも流れていく。例えそれがどんなに小さな動きであっても逃さずに、、情動と共にあるように、稽古してきている。 いっぽう “感情” のほうは、溶かして溶かして流してきた。感情が溶けると、情動の流れを感じることができるから。煌めく情動の流れを。 それがこの間から、“感情” にも取り組み始めている。問題意識として、ずっとあったらしい。

亀の歩み稽古日記~情動と感情~

「情動」という言葉はよく聞く。例えば水の動きの時、「情動は滞りなく何処へでも流れていく」とか。 その「情動」と 「感情」との違いについての話は、初めて聞いたな。 感情は居つき 情動は流れているもの 言葉で聞いただけではよくわからない気がする。なぜなら 「情動が流れている」感覚って、なかなか無いんじゃないかと、、。言葉の解釈の違いもあるだろうけど。。 ここでいう情動はどんな感じかというと、ものすごく豊かな感じ。普段はどちらかというと感情に色どられている。感情は居つくから

亀の歩み稽古日記~自由に舞いたい~

ここのところ、またまた自由への壁を感じていた。…そこに終わりはない…。螺旋状に巡る。 やはりまだまだ、動きに囚われていることが分かった。癖のような無意識の動きに。自由になれなくて気持ち悪い。 「自由になれない」と叫んでいる時は、「自由になりたい」ともがいている。自由が出口を見失い、狭いところを右往左往している、、 手足が先に動いていると指摘された。無意識に勝手に動いていると。 「もっと感じて共にないと。エネルギーはあちらにもこちらにもどんどん流れている。たとえ殆ど動かなく