光と陰―印象派・光の系譜 展に行って

先日、大阪にある、あべのハルカス美術館へ行って来た。
印象派画家の展示が光をテーマになされるというものだ。

「陰こそ唯一光の理解者」。
これはamazarashiというバンドの、未来になれなかったあの夜にという曲の一節だ。

今回の展示は、まさにそんな感じだったと思う。

わたしは美術館の空気感が好きなだけで、特に美術史や技法などの知識を持っているわけではない。
正直、「印象派」と言われてもピンとこなかった。
ただ代表者とも言えるクロード・モネの作品が、特に「睡蓮の池」が、大阪で見られるのを楽しみにしていた。

モネはもちろん良かった。
力強く、だけど繊細な筆使い。柔らかな光。そしてどこか、抽象的な絵。

地中美術館へまた行きたい、もっと睡蓮を見ていたい。
そう思った。

しかし、ある意味で裏切られたのが、話題にもなっていた レッサー・ユリィ の絵だ。

見た瞬間に惹かれた。

ピサロやルノワールも好き。
好きなはずなのに、やられた。

なんだろう。
物悲しさというか、静けさというか。
とても「陰」を感じるのである。

光は、陰があってこそ存在する。
そんな、当たり前の、しかし時々忘れかけるようなことを、教えてくれた。

陰。
それは、もしかしたら、人間臭さかもしれない。
実は、心の奥底に眠る闇なのかもしれない。

わたしの瞳で見ている世界は、ユリィの見ている世界と同一ではない。

時代も、場所も、異なるのだから。

それだけではない。
現在わたしの見ている世界があなたの見ている世界が同じかというと、きっと、そうだとは言い切れない。わたしにはわたしだけの「世界」があり、あなたにはあなただけの「世界」が存在するはずだ。

つまり、ユリィは単に陰のある場所をそのまま写しただけだとしても、わたしは、ユリィ自身の陰までをも感じ、心の琴線に触れたわけだ。

どんな意図があって、ユリィの作品がイスラエルから出品されたのだろうか。
真実も事実も、わたしは知らないが、もしかすると、光を感じるためには陰が必要不可欠だということを感じさせるように、ではないだろうか。






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