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閑吟集と五行歌

 こんにちは。南野薔子です。
 『閑吟集』(岩波文庫)を読んで、五行歌との類似性について思ったことなどを書いてみます。
 
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 今年のはじめ頃に岩波文庫から『閑吟集』(真鍋昌弘校注)が出たのを買って、ちびりちびりと読んでいた。読む中で感じたのは、閑吟集に出てくる歌の感触は、五行歌に近い、ということだった。
 といっても、閑吟集は主として小歌を集めており、巻末の解説には「『閑吟集』の小歌の多くは、広い意味の酒宴歌謡、酒盛りの場の小歌であったと見てよい」とあるから、閑吟集は詩歌集というより、歌の歌詞集なのである。おそらくは何かしらの節をつけて歌われた歌なのだろう。しかし、その節がわからない以上、私は閑吟集を読む詩歌集として読むしかないわけで、そうやって読んだ感触が五行歌に近いと感じたのだった。
 それはもちろん、閑吟集の歌が、和歌と異なり、必ずしも五音七音を単位とした作りになっていないというのも大きい。が、それ以上に、内容であるとか歌の雰囲気であるとかが五行歌を思わせるものがある。酒宴歌謡だったという性格からか、日々の実感の中から生まれてくる感慨をわりと直接的に、ある種奔放にさえ歌っていたりする。それが、現在の五行歌に見られる自由さと感触が似ているような気がする。
 閑吟集に出てくる歌は、とても短いものから、かなり長いものまでさまざまだが、この本で五句に句分けして書かれている歌をいくつか試しに五行で分かち書きしてみる。
 
 1番
 
 花の錦の下紐は
 解けてなかなかよしなや
 柳の糸の乱れ心
 いつ忘れうぞ
 寝乱れ髪の面影
 
 105番
 
 身は浮き草の
 根も定まらぬ人を待つ
 正体なやなふ
 寝うやれ
 月の傾く
 
 133番
 
 沖の門中で舟漕げば
 阿波の若衆に招かれて
 味気なや
 櫓が櫓が櫓が
 櫓が押されぬ
 
 164番
 
 名残惜しさに
 出でて見れば
 山中に
 笠の尖りばかりが
 ほのかに見え候
 
 201番
 
 独り寝はするとも
 嘘な人はいやよ
 心は尽くいて詮なやなう
 世の中の嘘が去ねかし
 嘘が
 
 220番
 
 春過ぎ夏闌てまた
 秋暮れ冬の来るをも
 草木のみ只知らするや
 あら恋しの昔や
 思ひ出は何に付けても
  
 詩的な表現もあり、おそらくは口に出した言葉そのままのような生き生きした表現もある。現代語でないという点を除けば、かなり五行歌と近い感じがあると思うがどうだろうか。
 この閑吟集は、一人の世捨て人が同好の士のために小歌を集めて編んだものだという。いつか誰かが、五行歌について、そんなアンソロジーを編む日が来るかもしれないなどとちょっと夢想してみた。
 
 ちなみに私がとても好きな閑吟集の歌は次の二つである。
 
 139番
 来ぬも可なり 夢の間の露の身の 逢ふとも宵の稲妻
 
 245番
 薄の契や 縹の帯の ただ片結び

 

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