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オリジナリティをめぐる私感

 こんにちは。南野薔子です。
 よい歌に欠かせないオリジナリティについての個人的な雑感を書いてみます。

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 しばらく前にオリジナリティをざっくり分類してみるという記事を書いたが、じゃ、どうやったらオリジナリティを歌に持たせることができるんだ、という、これは五行歌のみならず創作に関わる人にとって永遠の問題なんだろうな。
 オリジナリティをざっくりと「ありふれてなくて、そのひとらしいもの」と捉えてみる。じゃ、ありふれているかいないか、自分らしいかそうじゃないかの判断はどうやってするんだ、ということになってくる。
 ずいぶん前、多分五行歌を書き始めたぐらいの頃に、ひょんなことから「オリジナリティは情報の真空地帯には発生しない」という言葉を知った。社会学者の上野千鶴子さんの言葉らしい。
 あ、そうか、と思った。
 何がありふれていて、何がそうでないのか、は、確かにある程度は情報の量に触れないとわかるわけないんだよな。
 そして、情報の量に触れることによって、私はこういうのが好き、こういうのを書きたい、という方向性もより見えやすくなるということだと思う。
 もっとも、子どもが、大人と比べると圧倒的にそれまでに触れた情報が少ないだろう子どもが、逆に影響を受けていないゆえに、すごくオリジナルな発想をしたりすることは確かにある。また、大人になってもそのような感覚を失わずに創作できる人も稀にはあると思う。そういうのをきっと才能っていうんだろうなあ。
 しかしそういう才能は狙って持てるものでもないので、私はできる限りいろんな作品に触れて、そうやっていろいろと影響を受けながら、自分のオリジナリティを抽出してゆくしかないわ、と思ったわけである。
 人の作品などに触れることで自分のオリジナリティを見出してゆく、この方法においてもすごく勘所、センスがよくて、わりと早いうちから自分のオリジナリティを紡ぎ出せるタイプっていうのもいると思う。それも多分才能っていうんだろう。
 でもそういう才能がなくても、できるだけいろいろと触れてゆく、影響を受けてゆくことによって、少しずつでも、自分のオリジナリティを確立してゆけるんじゃないか、と思ってやってゆくことにしている。
 メンタルヘルス等の分野で「ひとと比べない自分らしさを大切に」といったことがよく云われるし、それはそれとしてよいことだと思うが、しかし創作の分野におけるオリジナリティ、自分らしさというのは、やはりどうしたって他人の作品との「違い」なのだから、ポジティヴな意味で人とどんどん比べてゆく必要はあると思っている。
 ただ、なかなか詩歌などの場合難しい面もあると思う。例えば、研究だったら、当該分野の先行研究を調べ尽くして、それらにどういう問題があるのかとか、それらに自分が何を付け加えられるのかとか、つまり自分のオリジナリティを明確化させないとそもそも研究として成立させてもらえない一方で、先行研究を調べる環境や手段は確立されていることが、少なくとも現代では多いと思う。それに対して詩歌などの場合は、自分が書いた表現に本当にオリジナリティがあるかどうか知りたいと思ったところで、例えばネットを検索しても、古今東西の詩歌に同想、類想がないかどうかなんて調べ尽くすことはまず無理であろう。だからこそ、できるだけ多くの作品に触れて「何がありふれていて何がそうでないか」の感覚を磨いてゆくしかないなあと思うのである。あと、同想や類想の作品があるという事態がある程度避けられないとしても「あるとしてもその中で一番いいものを書くぞ」というような意気込みもあった方がいいのだろう。

 とか、思ってはいるのだけれど、それが実践できているかというとなかなか。できるだけ多くの作品、五行歌自体もだが五行歌以外の詩歌や文学、またその他の表現いろいろ、触れてゆきたいとは思っているが、潤沢な時間や資金やエネルギーがあればねえ、とためいきをつく日々である。それにすべてを注ぎ込みます! みたいな生き方はどうやらできそうもないし(それができるならそれも才能のうちなんだろうなあ)。
 まあ、自分のペースで、じわじわとでもオリジナリティの精度を上げて行きたいものである。


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