暇な大学生の「死と人生」

最近死に関するものを目にする機会が多い。ドラマで私と年齢の近い登場人物があと3年の命を言い渡されたり、好きな作家が書いた小説の半数は死ぬまでの1年半の間に書かれたものであったり、その作家が病を患ったのも今の私ほどの年齢であったり。

ドラマの登場人物は、自分に残された年数を知り、本当は何年後でもいいから達成したいと思っていたことに向かって、今から取り組むことを決めていた。(ちなみにドラマとはスカーレット)

実際私も今、あと3年などと言われたらきっと自分の中にある話を全部書き出したいと思うだろう。小説が世にでるのを見ることはできないかもしれないがせめて原稿だけでもいいから残したい。このためなら大学もいかなくなるだろう。1分1秒が惜しい。大会には適当に親に出してもらおう。どこにも当たらなかったら自費出版してほしい。自分の話が冊子になるのが夢なのだ。
それから適当に見繕った相手と恋愛の真似事もしたい。私は家族以外から大して愛されたこともない。そのままでは私の心も体も可哀想だ。せめて年の近い相手とデートをして手をつないで愛しながら歩きたい。
なんて無欲なのでしょう。私は天国行きだ。万歳。

では例えばこれが余命10年だったらどうだろう。相当プランが変わる。元気なうちは旅行に行きたい。大阪や金沢がいい。病身で白浜温泉なんかも行きたい。自分は梶井やオダサクだというような気分になるのも悪くないだろう。そうしたら金が必要だからもしかしたら最初の数年は普通に働くかもしれない。
それから3年なら小説を書き出すだけでおそらく精一杯だろうが、10年あるのなら論文も書きたい。学術的な貢献をするのも夢なのだ。学会で1度発表できたら嬉しい。だからきっと大学には在学しているだろうが授業はほどほどに研究ばかりすることだろう。それから小説も大会にも自分で出す。その結果を見届けられたら達成感が得られるだろう。そして自費出版したい。表紙のデザインやらフォントやらをこだわり抜いて最高の本にしたい。これで1つのゴールだ。
恋愛に関しては10年なんてビジョンを立てられないからこれは成り行きに任せよう。独り身ではありませんように。最後まで独りは寂しいですから。

そしてこれが余命40年だとどうだろう。私は文化財制度や文化教育に関することに関わってよりよい未来に貢献できたら嬉しい。そのためには学位も修士も必要だろうから大学には真面目にいかなければならないだろう。私は朝最弱であるから善処しなければならない。ぴえん。
それから小説をたくさんの人に読んでほしい。私という人間を知らない人にまで読んでもらい、私という存在の没入なくありのままの話を読んで好きになってくれたならこの上なく嬉しい。いやあそんなことができるのだろうか。できたなら私はこの世で1番幸せなやつにちがいない。
死ぬとわかっていながらやはり隣に誰かいて欲しいものだ。40年はわりと長いため適当に見繕った相手じゃいけない。40年生きているなら1人くらいには私の心の内まで理解してもらい、受け入れ愛されたいものだ。不可能なのだろうか。40年たっても私の中の私を見つけて抱きしめてくれる人に出会うことは無理なのだろうか。まあそれはそれでしょうがない。そのときは私が私自身を抱いて死のう。

そうやって考えているうちに、ああこれが将来かと気づいた。死までの間のプランニングが将来ってやつなのかと気づいたのだ。自分に与えられた死までの間、つまりは人生をどう生きたいか、何を成したいかを見つめて今するべきことをするのが人生に対する"深謀遠慮"なのだろう。
それと共に何年かに1度達成したいことを清算するのも悪くないかもしれないと思った。例えば5年スパンで清算すれば突然の死で成し得なかったことは数年分だけになる。そうすれば悔いも減るだろう。

となると私はまず小説を書き始めて個人研究を真面目にやり朝きちんと起きて大学に通い適当なパートナーに出会うための修行にでもいそしまなければならないというわけだ。

お気づきの通り私にとって1番困難を極めるのが「修行」であろうということは黙っていておいていただこう。

この約束は死ぬまでだ。君が。私が。

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