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【新刊】板倉聖宣『なぜ学ぶのか』【試し読み】


「なんで勉強しなきゃいけないの?」──あなたはこんなふうに思ったことはありませんか? そしてあなたがもし学校の先生で、生徒にこう尋ねられたら、どのように答えますか?
 本書には「なぜ学ぶのか」「本当に学びがいのある知識とは」「これからの社会をどう生きていけばいいのか」といった内容が書かれています。科学者であり教育学者でもある板倉聖宣さんから、これからの未来を生きる人たちに贈るメッセージです。
 ここでは「中学生への手紙」として書かれた、第1章「なぜ学ぶのか」を全文公開いたします。勉強する意味がわからなくなっているひとはもちろん、これから研究者を目指すひとにも読んでほしい文章です。
★目次★
なぜ学ぶのか
未来を切り開く力
百聞は一見に如かず?
死んだらどうなるか
予想と討論と実験と
たのしく学び続けるために
「科学者とあたま」をめぐって
寺田寅彦「科学者とあたま」
推薦の言葉(小原茂巳)


 なぜ学ぶのかわからない

 「なぜ学ぶのか」──じつは私もよくわからないのです。そりゃあ、一般的にいって「かしこくなるために学ぶのさ」などといえばいいのだったら、私にだっていえます。しかし、「どうしてこんなことを学ばなければならないのか」っていうようなことになると、まるでわからないことが多すぎるのです。それで私は、いつのまにかその「なぜこんなことを学ぶのか」をわかろうとして研究する(学ぶ)ようになってしまいました。おかしな話かもしれません。
 もっとも、私にだって、それをなぜ学ぶのかわかることもあります。わかったときはとてもうれしいのです。それで勉強にとても身がはいるようになり、新しい学問の世界がひらけてくるのです。ときたまでもそんなことがあるものだから、やみつきになったというのでしょうか。そんなわけでいつのまにか「なぜ学ぶのか」を研究するのが私の仕事の一つのようにさえなってしまいました。
 もちろん、いま中学生であるあなたたちとくらべたら、そりゃあ私の方が知っていることがたくさんあるでしょう。わからないことだらけの私でも、少しはお役に立つこともあるというものです。そこで、私がわかったこと、わからないでいまわかろうとしていることなどを、考え考えお話しすることにしたいと思います。

 私が小学生のころは、中学校はいまとちがって義務教育になっていませんでした。いまの高校や大学と同じように、行きたい人、経済的に行けそうな人だけが試験を受けて入ることになっていたのです。
 そこで私も「試験勉強をするように」というので、分厚い問題集を与えられました。私が「なぜ学ぶのか」と考えるようになったのは、そのときからだといってよいかもしれません。だって、それまでは試験勉強など一度もやったことがなくて、学校から帰ればあそぶものときめていたのですから。学校は好きではなかったけれど、それほどきらいでもなかったからいいのですが、問題集で勉強するのはとてもいやだったのです。
 どうしてかというと、不勉強だった私には、わからない・できない問題が多すぎたのです。片っぱしからできない問題ばかりをやらされたら、だれだっていやになってしまいますものね。それに、正答をみて「なるほど」と思えればそれでもいいのですが、正答を見ても納得のいかないことが少なくなかったものですから、ますます「なぜ学ぶのか」わからなくなってしまいました。あなたもそんなふうに思うことはありませんか。もしあったら、もう少し私の話につきあってください。


 なんのために覚えるのか

 私がやらされた受験参考書には、たとえばこんな問題がのっていました。「ジャガイモのいもは根か? 茎か?」というのです。
 「なんだ、こんな問題やさしいじゃないか」と私は思いました。都会育ちの私だって、いもは土の中にできることぐらい知っていましたからね。植物の地面の中にある部分──それは根にきまっているじゃないか。だから根でいいんだ、と考えたのです。ところが正答をみるとそれが大まちがい、ジャガイモのいもは地下茎といって茎の一種なんだそうです。
 そういえば、「地下茎というのがある」ということは、私だって知っていました。「竹は地下茎で仲間をふやす」とか、「私たちの食べるハスは地下茎だ」ということは、ききおぼえていました。だけど、ジャガイモのいもが地下茎だなんて、私にはどうしてもそんなふうには思えませんでした。
 それなら、サツマイモのいもはなんでしょう。そんな問題もありました。「ジャガイモのいもが地下茎なら、サツマイモのいもだって地下茎かもしれない」と私は用心深く考えました。しかし、なぜジャガイモのいもが地下茎といえるのか、そのわけもまるでわからないのですから、サツマイモについて自信ある判断を下せるわけがありません。そこで、考えるのがいやになり、正答のところを見ました。すると、そこには「根」と書いてあるではありませんか。私はまるでわからなくなって、勉強するのがいやになってしまいました。
 じつは、私は大人になってから当時教わった理科の教科書をしらべてみました。すると、4年生の教科書に「いも」というのがありました。そこを読むと、ジャガイモについては「このいもはくきから地中に出ている枝の先が太くなっているものである」と書いてあり、サツマイモについては「このいもは根が太くなっているものである」と書いてあります。ですから、それをちゃんとおぼえていれば、ジャガイモは茎、サツマイモは根、ということだってちゃんと答えられたはずだったのです。だから、教科書もろくに読まなかった私がいけなかったのだ、ということになりそうです。
 「しかし、いくら教科書に書いてあるからといってそんなむちゃな問題があるか」と私ははらが立ってしかたがありませんでした。
 「ジャガイモは地下茎でサツマイモは根だとおぼえて何になるんだ」「何のためにそんなことをおぼえなくてはいけないんだ」
 私はあまりはらが立ったものだから、このことだけはかえってちゃんとおぼえてしまったようです。


 断片的な知識では感動できない

 「ジャガイモは地下茎でサツマイモは根、そんなことを知って、いったい何の役に立つんだ」──私が小学校6年生のときそういう疑問をもってから、もう30年以上もたちます。その間私は、教育について考えるたびに、何度このことを思い出したかしれません。
 念のために、植物学者は、なぜジャガイモのいもを地下茎と考え、サツマイモのいもを根としているのか、ということもいろんな本でしらべてみました。すると、いろんなことがわかりました。
 ジャガイモの地下の部分をしらべてみると、いもはふつうの根の先にはつかずに、茎の根もとから出ているふつうの根より太い茎のようなものの先につくのです。
 それに、ジャガイモのいもについている芽の位置を見ると、いもの形はまったく不規則にみえるのに、芽の配置だけはふしぎと規則的にならんでいるのです。それは地上の茎につく枝や葉が規則的にならぶのと似ています。
 また、これはだいぶあとに知ったのですが、ジャガイモのいもを植えずに、花がさいたあとにできたタネをまいて育てると、地上の茎から出た枝が地下にもぐって、その先にいもができるそうです。
 こういういろいろなことを考えると、ジャガイモのいもは地下にできるとはいうものの、ふつうの根より茎とよく似た性質があるので、植物学者はこれを地下茎と考えるようになったのだろう、と想像することはできます。
 けれども、私にはまだ納得がいきません。そんなことは、ふつうの小・中学生にはなかなか納得がいかないと思うからです。こういう話が十分よく納得できるためには、「植物学者が根とか茎というものをどのように考えてきて、どんなが必然性があってその概念を改めていく必要があったのか」ということを、くわしくゆっくり教えなければならないのです。もし、そういう授業が行なわれたら、それはそれでたのしい授業になって、みんな「なるほどなあ、植物学っておもしろいなあ」と思うようになるかもしれません。
 しかし、いまのところ私がしらべたかぎりの知識を全部動員しても、そういうたのしい授業はできそうにありません。植物学者たちが、地下にある茎(地下茎)という概念を作りあげたとき、どんな感激があったか、わからないからです。ジャガイモを地下茎とみなす考えのすばらしさが伝わっていないで、その断片的な知識だけが伝わっているのです。
 「ジャガイモのいもは、じつは茎の変形したものなんだ」というような知識は、感動的に教えられるのでなければ、いくら教えてもなんにもならないのではないか、と私は思います。こんなことを知っていても、試験のとき以外にはまるで役に立たないし、ジャガイモを育てるときだって、そんなことを知らなくても、まったく困らないからです。だから、そんなことを教えるのはおかしいと思うのです。


 新鮮だった西洋の知識

 それでは、日本の学校ではどうして「ジャガイモのいもは地下茎だ」なんて、みんなに納得しづらくて、役にも立たないようなことを教えるようになったのでしょうか。じつは10年ほど前のこと、私はそのなぞを解くカギを発見することができました。
 日本で学校教育がはじまったのは、いまから百年あまり昔の、明治のはじめのことですが、そのころの日本の小・中学校では、科学の教育がたいへん重んじられていました。福沢諭吉など明治文化の先覚者たちは、西洋の自然科学のすばらしさに目を見はり、ぜひともこれを教えなくてはならないと考えたからです。
 自然科学といっても、とくにそのころの日本人にとって新鮮だったのは、物理学や化学の知識でした。植物などのことなら、日本だって昔から農業がさかんだったし、「本草学」という学問の伝統があるから、西洋の学問から学ぶことは大してあるまい、などと考えられていたのです。
 ところが、そんなときにされたフランスの小学校の教科書『初学須知(しょがくすち)』〔須知は〈知るべし〉とも読む〕の「植物学」を見て、人びとはおどろきました。その「第一課程」のところに、「ジャガイモのいもは根ではない。茎より出た小枝が地面に入っていもとなったものだ。茎は芽を生ずるけれども、根は芽をもたないから、根と茎とを区別するのは簡単だ」と書いてあったからです。
 「植物についてだって西洋の学問はちがう」「早くこういう新しい知識を教えなければ外国におくれてしまう」──科学(理科)の教科書を書こうとしていた人びともそう考えたのでしょう。その後、日本人の書いた小学校の教科書には、必ず「ジャガイモのいもは根ではなくて茎だ」という最新の知識が強調されるようになったのです。
 人びとは、こんなことを知って、わけもわからずに「西洋の学問というのはさすがにえらいことをいうもんだ」と思ったにちがいありません。明治の初期の人びとは、西洋から入ってくる知識を、それが新奇であればあるほど、貪欲に吸収しようという意欲にもえていたのです。
 そんな時代なら、「なぜ、そんなことを学ぶのか」ということなど問題になんかなり得なかったにちがいありません。「西洋からやってくる新奇な知識は、何でも早く吸収すればよい」と思われていたのですから。
 これは、いま「学校で先生の教えてくれることにまちがいはないだろう」と考えるのと同じことで、まちがっているとはいえません。それに、学校の先生はきっと、私たちが学ぶに値することだけを教えてくれているにちがいないのです。
 いつもそう信じて、「どうしてこんなこと勉強するの?」と考えないですむ人は幸福な人といえます。勉強の効率も上がりますからね。しかし、ときには「なぜこんなことを学ぶの?」と考えないと、ひとりだちして勉強するときに困ることになるのではないか、と私は思うのです。

 「ジャガイモのいもは根でなくて茎だ。それは芽を出すから明らかだ」──そういう教科書を読んで、人びとは「なるほど」と思いました。理科(科学)の教科書を書くような人びとも同じです。そこで、その人びとはこの新しい考えを応用して新しい教科書にこう書きたしました。
 「サツマイモも、ふやすときには温床にいもを伏せて芽を出させる。だからこれも根でなくて茎だ」というのです。明治の十年代にはそういう教科書がふつうになりました。
 そのころの日本では、ジャガイモよりサツマイモの方が普及していたので、ジャガイモについていうなら、サツマイモについてもいわなければならなかったのです。そこで、それらの教科書の筆者たちは自分の頭で考えて、サツマイモのことを書き添えることにしたのです。
 しかし、前にもいったように、そのころの植物学の知識でも、本当はサツマイモのいもは茎でなく根だったのでした。そこで、そのことは、アメリカで植物学を学んで帰った大学の先生によって訂正されることになりました。十数年あとのことです。
 ところが、「ジャガイモは茎で、サツマイモは根」──こうなるともう、簡単な理屈では説明できませんでした。しかし、教科書は、一度有名になったこの知識をぬかすことはできません。そこで、私の小学生のころまで、理屈はともかく、「ジャガイモは茎で、サツマイモは根」という役に立たない知識が、試験用の知識としてをきかせるようになったのでしょう。
 もっとも、「ジャガイモのいもは茎だ」という知識だって、まったく役に立たないとばかりはいえません。そういう話をきいて「ふーん、学者っておかしなことをいうもんだ。これにはきっとわけがあるのだろう。おもしろそうだからもっと勉強してやろう」という人がでてくるのなら、それはそれで立派に役立っているということもできます。考えてみれば、この私だって、そんなことが気になって、いろいろしらべるようになったともいえるわけです。
 たしかに、いま学校などで教えていることは「どうしてそんなことを学ぶのか」よくわからなくても、きっとどこかにその理由がみつかるにちがいありません。いまの私たちには、その理由があまりはっきりしなくても、昔は、いや、今もどこかで「どうしてもこれを教えてやりたい」と本気で思っている人がいるにちがいありません。


 学びがいのある知識とは

 ジャガイモといえば、その後私は、「そのいもは根でなくて茎だ」という知識よりも、はるかに学びがいのある知識があることを知りました。それは、「ジャガイモのいもは実ではない」という知識です。
 ジャガイモは、いもを植えてふやします。だから植えるいものことをよく「たねいも」といいます。しかし、その「たねいも」は、花が咲いて、花粉がメシベの先についてできる、ふつうの(本当の)たねとはちがいます。
 花が咲いたあとにできる実や、その中にあるたねは、そのたねを生みだした親の植物の子どもということになります。だから、そのタネをまいて育てたジャガイモは、親のジャガイモとはどこか性質がちがうところができます。しかし、「たねいも」はジャガイモという植物の一部であって、子ではありません。そこで、そのいもの一部を植えて育てたジャガイモは、一年前のジャガイモとそっくり同じ性質をもつことになります。孫悟空は、自分の髪の毛をもとにしてたくさんの自分の子分を作りましたが、そうやって作った子分は自分とそっくりになるのです。人間でも一卵性双生児は、その性質がそっくりなのと同じことです。
 そこで、もとのジャガイモの性質(うまいとか病気に強いとか収穫が多いとかいう性質)が気にいっている場合、「いもを植えて育てる」という栽培法は理想的だということができます。しかし、「もっといい種類のジャガイモを育てたい」ということになったら、いもを植えてふやしたってだめなのです。そんなときは花の咲いたあとに実をならせるに限るのです。
 また、いもでふやしたジャガイモは、みんな性質が同じだということは「そのジャガイモが何かの流行病におかされるようなとき、一斉にみな同じ病気で枯れ死んでしまうような可能性が高い」ということでもあります。(人間でも、一卵性双生児は、一人が流行病にかかると、もう一人もかかることが多いそうです)
 じっさい、アイルランドではそんなことがあって、「いたるところのジャガイモが全滅し、何十万人もの人が餓死した」という事件もおきています。こんなことを考えると、やはり、ときにはいもでない本当のたねをまいて、いろいろな種類のジャガイモを育てておくことが大切だ、ということがわかります。
 つまり、「ジャガイモのいもは本当のたねではない」という知識は、こんなにいろいろと役立つのです。そんなことを考えて、私は十年ほど前に、子どもと大人の両方を対象にして『ジャガイモの花と実』という本を書きました。こういう本を書くようになったのも、じつは「ジャガイモのいもは茎か根か」というような知識をおぼえることに疑いをもっていたことがもとになっていたのです。


 本当の学問をしよう

 この話、はじめから終わりまでジャガイモの話ばかりになってしまいました。考えてみれば、ジャガイモの話だけだって、もっともっと話すことがあります。
 しかし、私はなにも、ジャガイモのことだけについて「なぜこんなことを学ぶのか」と考えさせられたわけではありません。理科に関するほかのことだって、そのほかの教科の勉強についてだって、少し考えると片はしからわからなくなってしまったのです。
 そういえば、私はいまでも九九をすらすらいうことができません。それは、小学校2年生のとき、機械的に九九をおぼえることがばからしく思えて、なかなかおぼえられなかったからです。それで私はずいぶん損をしたこともあったようです。中学校の数学なんかでも、考え方はよくわかっているのに、たえず計算をまちがえて失敗していたからです。
 「なんでこんなことを勉強しなくちゃいけないの」などと考えると、どうも勉強の効果があがらなくなります。それでずいぶん損をすることもあるわけです。前にも書いたように、小学校6年生のときも受験勉強をやるのがいやで、ついに受験に失敗してしまいました。私は泣く泣く私立の中学校に行ったのです。
 しかし、それでも私は「なぜ学ぶのか」考えることなしに勉強する気にはなれませんでした。
 それで、中学校へ行っても、英語や歴史や国語など、ろくに勉強する気になりませんでした。私はものを作る職人の息子でしたから、ものを作ることの尊さはわかるけれども、「英語や歴史や国語なんか勉強したってしかたがない」と思ったのです。
 ところが、あるとき、家に来た大工さんが、見本に英語の雑誌をもってきて「こんな家がいい、あんな家がいい」といったのにはおどろきました。「ものを作るためにだって、視野を広くするためには、英語が役に立つことがあるのだ」と感じられたからです。そこで私も英語を勉強する気になりました。
 「なぜ勉強するのか」それがわからないと勉強しない、というのは、いまの学校教育の中では明らかに損です。しかし、長い目でみると、それは決して損なことではないと私は思っています。
 「なぜ学ぶのか」それがわかってはじめて〈本当の学問〉ができるようになり、学問を作りかえることができるようになると思うからです。
 「急がば回れ」ということわざがあります。本当の学問をするために、ときには損を覚悟で「なぜ学ぶのか」考えてみませんか。

なぜ学ぶのかカバー

『なぜ学ぶのか──科学者からの手紙』
板倉聖宣/著 奥まほみ/装画

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