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エンディングまで、寝るんじゃない『アステロイド・シティ』

筒井康隆の小説に『朝のガスパール』という作品がある。朝日新聞で連載され、読者からの投稿およびパソコン通信を使うという実験的な手法で書かれた、作者の持ち味がよく出た作品だった。まずオンラインゲーム内の物語、そのゲームを遊んでいる人たちの物語、という小説を書いている作家の物語、さらに筒井康隆自身の状況、といういくつもの階層があり、そこに読者から寄せられた話のアイディアや、ネット上の書き込みなどを物語の展開に組み込むというメタ的でトリッキーな構造。第四の壁を悠々とぶち破り、上位の階層で起こった出来事は下位の階層に影響を与え、当然その逆も起こりえる。初めて読んだときは爆笑爆笑の連続だったし、「小説ってこんなに自由なのか!」と感動したのを覚えている。

この『アステロイド・シティ』もまた、階層が分かれている映画だ。

舞台は1955年のアメリカ南西部。そのむかし隕石の落下によってできた巨大なクレーターで知られる「アステロイド・シティ(小惑星の街)」。ここで子供科学賞の授与式が行われることとなり、5人の秀才とその家族がやってくる。母親が亡くなったことを子供たちに伝えられていない父親と、マリリン・モンロー似の映画スター、なんだかわちゃわちゃした状況の中で式典が始まるが、なんとそこに宇宙人が現れて……という群像劇。
これがひとつめの階層。予告や作品のホームページでは主にこの部分を紹介している。
だが、映画は始まると同時にブライアン・クランストン演じる司会者が表れ、演劇界で注目されている新作『アステロイド・シティ』の制作過程を追うテレビ番組が始まることを告げられる。この視点が2つめの階層。
さらにそれとは別枠でエドワート・ノートン扮する劇作家が『アステロイド・シティ』という舞台劇の脚本を作るラインも存在し、もはやなんだかよくわからない。モノクロで画面サイズも小さいこの世界では、俳優たちが演じることに悩んだり、劇作家や演出家が相談しながら作品を作っていく様子が描かれる。これが3つめの階層となる。
つまりは入れ子構造の映画なわけだが、この映画が特殊なのは、最初に説明したひとつめの階層、いわゆる「アステロイド・シティ」の住人の一部が、「演じる」ことに自覚的である点だろう。これは結構ぞわぞわする部分だ。ウェス・アンダーソン監督は作家性の強い監督で、可愛い色使い、枠に収まったシンメトリーを感じる画面構成、抑揚のないしゃべり方をする登場人物などなど、特徴的な部分が何点もあり、今回の映画でもそれは健在だ。いわば人間で人形劇をやっているような手触りがあるのだが、その登場人物が階層をまたぎ、第四の壁を越えてくることで、箱庭的な世界を作ってきた監督が「これは作り物ですよー」とあからさまに観客にうったえてくる。『アステロイド・シティ』はそんな構造でできている。
ちなみにYouTubeでは、この映画のメイキング映像が公開されていて、映画を観た後だと余計に不思議な気持ちになってしまう。

とはいえ、話自体は別に難しいものでは無いし、絵的な面ですごく楽しい作品だ。
舞台であるアステロイド・シティは、製作にあたって広大な平地を探し求め、そこに岩や建物を据え置いた街で、スペインのチンチョンという街が使われている。ターコイズブルーの晴れ渡った空と、遠景に映される赤みがかかった山々、黄色く敷き詰められた荒野。それらの対比はとても印象的で美しい。個人的にはこの、ひとつの箱庭的世界を作り出そうとする製作者の偏執的にさえ感じるこだわりにかなり興奮した。
ギブソン元帥(ジェフリー・ライト)が着ている衣装は当時の軍服を細かく再現していたり、戦場カメラマンであるオーギー(ジェイソン・シュワルツマン)の服装もエイジング加工まで施していて、地味目なのに存在感がある。サボテンの花が描かれたサンディ(スカーレット・ヨハンソン)のドレスも目が潤うほど華やかだ。1950年台の文化や風景をスタイリッシュなものとして映したこれらの映像は観ているだけで観客に満足感を与えるだろう。
宇宙人の間の抜けた振る舞い、歌とダンスの牧歌的な雰囲気。作品全体に漂うのんびりとした空気感とユーモラスさは、観ていて穏やかな気分にさせられ、そんな和やかさを伴いながら物語は進行していく。

でも時代が時代なだけになんだか危なげなことも背景で起こっている。1950年代といえばアメリカとソ連が核兵器の競争をしていた時代。遠くでちっちゃく映る冗談みたいなキノコ雲、冷戦、核実験、宇宙開発、政府の情報操作、そういう危ういあらゆるものをこの映画はからりとした雰囲気でコメディっぽく映す。
なんでそんな撮り方をするのだろう。
劇中でサンディはこんな台詞を口にする。
「私たちがどんな人間かわかった。致命傷を受けても、その痛みの深さを受け止めない。嫌だから」
過去に実際あった悲劇や、現在進行形で起きているわずらわしいあれやこれ。ウェス・アンダーソンはそのようなものを決してシリアスに撮ろうとはしない。きっと彼にとっての映画のマジックはそこには無いのだろう。悲しみを悲しみとして、悲劇を悲劇として撮るだけならば、映画なんていらないじゃないか。そんな気分が『アステロイド・シティ』には常にある。そのため、悲しい場面でも何となくユーモラスな雰囲気が漂っているし、登場人物たちは無表情で演技をする。フィクションでくるむことで、現実の生々しさを回避するように。同時に、今回の映画では彼のルーツである「アメリカ」「テキサス」を舞台とし、核実験というものをのんびりと描くことで、時代の牧歌性と、自身の作風を重ね合わせ、自己への批評的な視点が見て取れる。つまりこの作品には一歩離れた場所から突き放して物事を見つめる視点が通底してあるのだ。

そしてこれは映画というものの曖昧さを切り取った作品でもある。番組を制作している世界では、俳優たちの惑う姿が描かれ、オーギーが手を火傷した理由もわからない。尺の都合という理由であらゆるシーンはカットされ、つなぎ合わせた映像で私たち観客はその物語を補完する。物語というものが非常にあいまいなものであることを暴露し、観客こそがそれらに意味を与えるのだということをご丁寧に台詞で言う。

でもそれって現実でも同じことだ。私たちは自分の視点でしか物事を見ることができなくて、全てを把握することなど不可能なのだ。
他でもない私自身だって、誰かにとって大事な何かを知らず知らずのうちにスルーしながら生きているのだから。

オーギーの妻は「アステロイド・シティ」の世界では確かに死んでいる。だが、階層を出た先には妻役の女優であるマーゴット・ロビーが普通に存在していて、のんびりタバコを吸っている。本来ならあるはずだったシーンがカットされたせいで出演できなかった、ただそれだけの理由で。古い映画を観たときに感じる「いま画面で演技をしているこの俳優は、いまはもういない」という感覚。そんな不思議な異化効果を持った場面だ。
それはつまり「死」というものと「カットされた場面」というものを接続させることで、喪われ、もはや忘れ去られていく人や景色への愛情を吐露しているのだと思う。
そこに私はウェスの優しさを感じる。映画と、人への愛情を感じるから。
悲しみはそう簡単に消えない。なんならかつてその場所に「悲しみ」があったことさえ私たちは知らない。その感情のすべてを人と共有することはできないし、すべてを映像として表現することは不可能だ。

だからこそ映画がある。

現実を生きるために虚構があり、虚構を生きるために現実がある。より深い眠りに沈むことで、再び前へ進み出せる。捉えきれない「空白」をわずかでも埋めるために映画があるとするならば、ともに恍惚の中へ行き、悲しみを癒そうじゃないか。再び目覚め、また生きるために。そのために俳優たちは「目覚めたいなら眠れ」と叫び続けるのだ。
ラストシーン、車は地平線の彼方へと走っていく。その先に何があるのか、どこへ繋がっているのかは、わからない。それでもムードは明るく、楽しげだ。なんだかうっとりしてしまうほどに。
野心的かつ、優しい愛を感じる映画、私にとって『アステロイド・シティ』はそんな作品だった。


ちなみに私はこの映画を2回観に行ったのですが、1回目の鑑賞の際、途中で少しウトウトしてしまったことを告白しておきます。まあでも、2回目の鑑賞の際は覚醒して観ることができたので、映画の台詞通りになるという体験ができました。いやー、良かったよかった(よくない)。


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