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【映画感想】始まりは青い色『君たちはどう生きるか』

アニメという虚構があり、宮﨑駿という稀代の映画監督がいる。彼の言葉にならぬ映像言語が流れおち、ひとつの形としてのこされた作品。そのようなたたずまいで、この映画は在る。

この映画は宮﨑駿の約10年ぶりとなる新作だ。物語は1944年、空襲警報が鳴り響き、空襲により火の手が上がる戦時下の日本から始まる。戦禍で母親を亡くした眞人は疎開先で新しい母親であるナツコと生活することとなる。資産家の息子としてある程度恵まれた環境に置かれた眞人は、新しい生活に馴染むことができない。父親の再婚相手である亡き母の妹・ナツコともギクシャクとした関係のままだ。やがて彼は導かれるように「塔」と「アオサギ」に出会い、亡き母の影を追いながらこことは違う幻想的な世界へと迷い込んでいくーー。

前作『風立ちぬ』は夢の具現化装置であるアニメーションを用いて兵器を描くことの功罪を自己言及した作品だった。堀越二郎という航空技術者の生涯を描くことで、「空を飛ぶ」という大いなる夢の追求が同時に戦争に加担していることの矛盾。設計図を描き、描き続ける。その純粋な想いはつまりメフィストフェレスに魂を売り渡すに等しき行為であるということを意味しているのだと。宮崎駿は彼のその姿に自分を重ね合わせる。子供たちに夢と希望を与える作品を、ファンタジーという手段を用いて表現してきたが、同時にそこで描かれてきた「兵器」や「暴力」は非常に危険な道具であるという事実。それを理解してなおアニメーションを作り続けてきた行為を自ら断罪するかのように。

『風立ちぬ』はその意味で自伝的な映画だった。
アニメーションは本来矛盾を孕んでいるし、危険なものになりうるということ。その中で私は作り続けてきたのだという告白にも似た物語。
そして堀越二郎=宮崎駿は「あちら側」へたどり着く。夢も希望も人間も戦争もあらゆるものを描いてきた彼は、それでもなお私は描くことをやめなかったと悪魔に宣言して、美しく荒涼とした場所へと歩んでゆく。
今作『君たちはどう生きるか』はその続編であるかのように、戦時下から始まり、鬱屈とした孤独と悲しみを抱える少年を主人公としている。

この映画では宮崎駿の過去作で描かれた構図や、似た風景が繰り返し描かれる。
例えば『もののけ姫』においてシシガミが一歩一歩ゆっくりと大地を踏みしめ、近づいてくるあのショット。あれと全く同じ構図でカササギが登場し、ヒタヒタと不気味に近づいてくるシーンがある。他にも『となりのトトロ』においてメイがまっくろくろすけの姿を追いかけ階段を駆け上るシーン、『千と千尋の神隠し』において千尋が湯屋を探索するシーン。そんな観客の中にそれぞれある「ジブリ映画」を想起させるかのように、既視感を覚える”絵”が所々で差し挟まれていく。だがそこに、かつてほどのアニメーションとしての躍動感は無い。シシガミが歩く度に生命を生み出し同時に死なせていたのとは対照的に、カササギはただ不気味に「近づいてくる」のみだし、階段を駆け上った先にまっくろくろすけはおらず、2階から見える景色は美しい光景などではなく、戦火に包まれた街があるのみだ。
前半部である「現実」においてはこのことを執拗に描く。
私にはこのリフレインが、宮﨑駿のサービス精神や、懐古主義から来たとは到底思えない。むしろこうしてかつての名場面と対比させることで、今作で描かれるものがより味気なく映り、現実においてそんな「奇跡」など存在しないのだとでも言われているような気がした。それは眞人が家の中で食事をする場面ではっきり「美味しくない」と言ってる場面でより確信に変わる。
アニメーションが持つ過剰さ
私たちがこれまで触れてきた宮﨑駿の作品は、アニメーションとしての躍動感に満ちていた。コナンもパズーも驚くほど快活に、みなぎるエネルギーを持って駆け回る。メーヴェと共に空を飛ぶナウシカも、ホウキにまたがり配達をするキキも、とてもとても優雅であり、「飛びづらい」という場面も含めて夢に満ちている。そう、それは「夢」なのだ。
眞人が唯一かつての少年主人公たちと同じように走る場面は、火に包まれた母親を追う場面くらいなもので、その後ファンタジーの世界に入り込んでからも彼があの快活な走りを見せることは無い。彼自身に空を飛ぶ力は無く、ぎりぎりカササギの力を借りてちょっとの時間浮遊する程度だ。
あらゆる場面にジブリの、中でも宮崎駿作品のセルフパロディといえるシーンがあり、悲しいことにそれはファンタジーとしての佇まいがいかに過剰なものであるかを強調する役割を果たしている。

この映画は後半からファンタジーの世界に足を踏み込むが、そこは決して夢のある場所ではないし、かといって『もののけ姫』や『風の谷のナウシカ』のように徹底して構築された異世界でもない。夢というものがまさしく夢でしかないことを突きつけるようにあらゆる場面、場所、そこにいる人々は浮世離れしており、海の動きも、光の瞬きもふわふわとして美しい。過剰なほどに。
眞人がジャムをたっぷり塗りたくったパンを食べるシーンはアニメーションの過剰さを強調する最たるシーンであり、彼が現実において「おいしくない」と言ったことを対比させている。そのせいか、私にはあの赤くどろどろしたジャムパンが異様なグロテスクさを放って見えてしまい、眞人が歓喜するほど美味しそうには見えなかった。
キリコと共同作業で魚の腹をかっさばくシーンは内蔵と魚の血がどろどろにあふれ、生命力を感じさせながらも、やはりどうもグロテスクに見える。これは宮崎駿の悪意であり、温情だ。現実の「何か」をアニメとして強調したとき、それはこうも「気持ち悪い」ものであり、血で汚れる眞人の顔は、自身を石で傷つけたことと変わらないくらい、身勝手で美しくない。そのことを教え諭すかのごとく。

映画はそのように、監督の言葉では説明しきれないあらゆる想いを重層的に表現している。

「面白いものはこの世界にいっぱいある。キレイなものや、まだ出合ってないかもしれないけれど、いいこともいっぱいある。それを子どもたちに伝えたい。ただそれだけですね。映画の中じゃない。映画の向こうにいっぱいあるんです。」

宮﨑駿が言ったとされるこの言葉は、ある程度この映画の本質を突いている。とめどなく溢れるイマジネーションを作品に注ぎ込み、多くの人を虜にしてきた作品はしかし、映画の外側に連れて行くことができたのだろうか。むしろアニメーションという殻の中に閉じ込めてしまったのではないか。映像の中で繰り広げられる世界はあくまで映像であり、現実には存在しない。

この作品には監督の言葉にならぬ膨大な言葉が映像言語として詰め込まれている。そして、そのすべての言葉を一度の鑑賞で理解することはおそらく不可能だろう。もしかしたら宮﨑駿本人にさえ無理かもしれない。どちらかといえば、ストーリーというよりも場面場面の印象でこの映画は出来上がっている気がする。そしてこの、つなぎ目の曖昧さは『千と千尋の神隠し』以降顕著になり出したもので、観客が「なぜ?」と思う疑問を疑問のままにしている。混沌とした世界を映し出す鏡のように。

この映画が特殊なのは自身の作品をリフレインし、その上で虚構を「虚構」だと強調し、さらに重層的に監督自身の私小説的な部分をさらけ出している作り方にある。全体に漂う「死」のイメージや、鳥たちのもつ奇妙で特徴の無い怖さ(=大衆そのもの)。ヒロインであり、母であり、火を使うヒミという少女の持つレイヤーの多さ。これら人物や台詞、場面や物語の密度の濃さが全体の印象として「よくわからない」という感覚を観た者に与え、さらに美しい光景が続くにもかかわらず、どこか「気持ち悪い」という印象を残す。

映像が監督の言葉を語り、それが観る者に届く。だからこの映画はジブリに対する思い入れによって解像度が大きく変わってくるのだろう。宮﨑駿が作ってきた作品たちが「虚構」であるということを粛々と見せながら。そして眞人は、13個の世界を均等に保ち続ける大叔父に出会う。彼も多くのレイヤーを持つ人物だ。ひとつに彼は宮﨑駿自身であり、13個の世界とは彼がこれまで作り上げてきた作品そのものを表しているように捉えることが出来るだろう。あるいは、手塚治虫という日本のアニメの祖といえる人物に当てはめてみれば、この作品を『火の鳥』の続編であり、監督なりの「現代編」として編んだ物語だと見ることも可能かもしれない。あるいは高畑勲、あるいはウォルト・ディズニー、あるいは「フィクション」そのものとして……。

だが、それらの「考察」は監督自身が答えを明言しない限りは謎のままだ。私はそれでいいのだと思う。良質な作品の多くは多層的に語ることが出来るものだし、この作品の本質はそのような「考察」にはないと思うから。
ジブリ映画のキャッチコピーが「生きろ!」だったり、「生まれてきてよかった」だったり、「生きねば」であったように、彼の作品は、この美しさも汚さも孕んだ世界でどのように生きていくか、そのことをずっと訴えかけてきていた。そのひとつの終着点が『君たちはどう生きるか』だ。監督が自身の人生を振り返り、なお届かない思いを誰かに託すかのように付けられたタイトル。

終盤の展開は『ハウルの動く城』や『崖の上のポニョ』と同じく、物語としては破綻している。あれはどういう意味だったの?これは解決されたの?そんな疑問をあえてそのままにして強引に物語をたたむ。現実ってそんなものだと言わんばかりに。

現実における世界のバランスはあの積み重ねられた石のように曖昧なものだが、それでもその場所で生きていくほかない。ファンタジーのような、作り話のような、夢のある世界は存在しないし、宮﨑駿が作ってきた作品それ自体はただの「虚構」だ。ファンタジーの世界は終わり、塔は儚く崩れ去る。現実への帰還は鳥を鳥に、石を石にして、眞人たちは糞にまみれる。そしていずれはそのことも忘れてしまうだろう。

一人の映画監督を追うということ。そうすることでしか見えてこない細部というものが作品にはあって、この作品にもそれはある。ファンタジーを描き続けてきた人だからこそ、あまりに寂しい色合いがこの作品に満ちていると私は感じるし、その密度の濃い映像から監督自身の人生や哲学、届けたい言葉が溢れている。なお我々観客はその言葉を全ては聞くことが出来ず、外に答えを見いだそうとする。ネットではあらゆる感想、考察で賑わい、私のこの感想もそんなものの一部となる。

しかし、「虚構」だからと言ってそれは「無意味さ」を意味しない。
この映画のポスターになり、ともに旅をしたカササギという存在。彼のような友だちをつくると眞人は宣言するのだから。つまりはファンタジーから一握りの何かを持ち帰ること可能だし、何かのはずみで人は誰かと友だちになることが出来るということ。例え、その世界を忘れてしまったとしても……。そして眞人は現実で生きてゆくことを選ぶ。母に別れを告げ、清濁併せ持った世界で生きてゆくことを。

エンドロールの背景は青色だ。その色はジブリ作品でお馴染みのトトロがいる絵と重なる。流れていく声優やスタッフの名前。それは現実への帰還を象徴すると同時に、宮﨑駿という人物のグラウンド・ゼロがここにあるということの表明ではないだろうか。「虚構」は「虚構」だ。現実は哀しく、汚さに塗れている。それを受け入れ、肯定し、再び歩み出す、その最後の場面までを切り取った映画。
だからこれは宮﨑駿の遺作なのではない。いや、作品的にはこれが最後となるかもしれないけれど、「私はこのように生まれ、13の世界を作ってきた」。ならば君たちはどう生きるのか。
そんなメッセージと共に映画は幕を閉じる。

「虚構」と「現実」が逢瀬することで生まれた曖昧模糊とした手触りを持つ作品。それが私がこの映画に持つ印象だ。夢の時間は終わり、混沌とした世界に私たちは放り出される。だがしかし、人はやっていける。誰かと出会い、仮に信用ならないと感じていても、何かのきっかけで友だちになれる可能性がある。そんなささやかな希望をこの作品は残してくれたのだから。

追記:
にしても最後のシーンが冷めてて良いですね。戦後2年が経過し、兄になった眞人が呼びかけに答えてスッと閉じるあの終わり方。ジブリ作品で恒例の「おわり」という文字も出さず、唐突にも感じるほどの断ち切れ具合。現実に切れ目なんてないし、人生は続く。映画という「幻想」の余韻をあえて残させないよ、と言わんばかりのあっさりした閉じ方で、私は好きです。


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