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間宮改衣『ここはすべての夜明けまえ』

ひらがなを文章全体に行きわたらせることで生まれる効果。それはより感情的に想いを伝えることだったり、あえてリーダビリティを下げてゆっくり読ませることだったり、語り手の性格や幼さを表したり、まあ色んな効果がある。
本作におけるその役割も上で書いた効果を果たすためなのだが、必ずしもそれだけとは限らず、一人称の文体で、私たちが知る人間とは異なる身体を持った存在が放つ言葉として見ると、一種の異化効果の役割を果たしていることがわかる。

日記の体裁で書かれた本作は、サイボーグの身体となり、25歳のまま年をとることなく、人とは異なる人生を、そして感情を経験してきたひとりの女性の物語だ。語られることの多くは彼女の「家族」のことであり、妻の代わりにサイボーグと化した娘と接する父親、母親の代わりとして存在している妹に強い嫌悪感を抱く兄、叔母である主人公のことを深く愛してしまった甥など、主人公がこれまでの人生で関わってきた人たちのことをぽつぽつと語る形式となっている。

途中途中で語り手の”本音”、例えば「ほんとに気もちわるいですね」とかそういうドキッとするような言葉が紛れ込み、他にも2000年代以降のサブカル、アニメ作品、ボカロ曲などをモチーフとして使うことで、現在とSF的な未来を繋ぐ役割を果たしている。そんな風に自身の身の回りに起きたことを少しずつ語っていきながら、やがて主人公はある後悔を語りだす。

本作において私がもっともダイブしながら読んだのはこの「後悔」の部分だった。それは恋や愛という感情がない状態のまま、相手の愛を利用することで孤独を埋め合わせたという後悔。主人公が甥から搾取したのは彼の愛だけではなく、愛するという以外の感情の搾取でもあり、人生の選択肢の搾取だった。甥はすべてわかった上で、主人公とともにいたのかもしれないが、それは確かに「人生を奪った」と言ってもおかしくない行為だ。悲しいのはサイボーグである主人公はそれを理解しながらも止めることが出来なかったということで、読者からしても、こうならざるを得なかったのだとやるせない気持ちになる。

宇宙開発やタイムトラベルと言ったSFのガジェット・要素が無いわけではない。しかしそれらSF要素は本SF小説においてさほど大きな位置を占めるものではない。では何が本作をSFたらしめ、独自性を際立たせているかといえば、「言葉」による人間とは異なる意識の表現にあるだろう。人間的でありながら現在とは異なる価値観。身体や社会が変革することによってどのような意識が生まれるのか。新たな意識がどう受容されるのか、されないのか。分かりやすくいえば「ものの見方」を楽しむ中編小説だったように思う。

主人公が徐々に成熟していくと、彼女の目線と同期するように、文章内で使用される漢字は増え、しかし「すべてが終わったあと」の、つまり物語終盤における主人公の目線には、それともまた違う”成熟しない自分自身を受け入れた者の言葉”が「ひらがな」というかたちでバラまくように広がっていく。

そんな彼女の思考は、ページを覆うビジュアルとなり、言葉で説明されていること以上に伝わってくるものがある。「私はこの身体と生きていくのだ」と。

トムラと交わした最後の会話において、主人公はトムラから理解されないことを喜ぶ。テクノロジーは彼女を救わない。ならば彼女自身が成熟しない身体を受け入れ、自分自身とまずは”友だち”になり生きていくこと、それこそが彼女が彼女自身を救う道なのだろう。

主人公の名前を空白にし、読み手自身の物語とすることで、異なる身体と、異なる思考を持った人類の言葉を書ききった小説だった。ときに感情的に、ときに軽やかに。もっとも暗いその時間を慈しむように。




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