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高野秀行『イラク水滸伝』おいでよ アフワールの湿地帯

高野秀行はデビュー作『幻獣ムベンベを追え』の頃からずっとあまり人が行きたがらない、行こうとも思わないような辺境を探訪してきたノンフィクション作家だ。2013年に出版された『謎の独立国家ソマリランド』では謎につつまれた「ソマリランド」の実情を探るべく、危険な地域にも足を運び、そこで暮らす人々との交流を通し、私たちが片鱗しか知らないその場所の文化や暮らしを緻密に、明るく、独自の視点で伝えていた。その後も『恋するソマリア』、『辺境メシ ヤバそうだから食べてみた』などのルポルタージュを書き、テレビ番組『クレイジージャーニー』に出演したりと精力的な活動を行っている。

さて、そんなベテランのノンフィクション作家が次なる「秘境」として選んだ場所はイラクにある謎の巨大湿地帯「アフワール」だ。ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた場所にあるこの湿地帯は、世界4大文明の一つメソポタミア文明の発祥地といわれており、入り組んだ水路と、独自の文化で形成された、日本人にはなじみの薄い地域である。古代宗教「マンダ教」を信奉する教徒たち、フセイン時代に湿地帯でゲリラ活動を行い政府軍と戦った「湿地の王」、移動手段である「舟」を手に入れる際の奮闘や、謎に包まれた「アラブ布」をめぐる旅などなど、ベールに包まれた「異国」の構造や魅力を平易な文章で綴り、なにげない風景を捉えることで、私たちにとってその場所が「異国」ではなく「身近な場所」であることを感じさせる試み。それがこの『イラク水滸伝』なのだ。
ルポルタージュとしてとても面白く、イラク文化について知る上で学術的な価値も高い本に仕上がっているので、これ系のノンフィクションが好きな人ならみんなにおすすめしたい。ではではもうちょい詳しく内容と感想を書いてみよう。

高野がこの旅を開始させたのは2018年の年明け頃。新聞記事の国際欄に載っていた”イラクにある湿地帯のニュース”を目にしたことがきっかけだったそうだ。この湿地帯は戦争に負けた者や迫害されたマイノリティ、あるいは犯罪者たちが逃げ込む場所だったようで、さながらイラク版『水滸伝』の梁山泊りょうざんぱくといえそうな場所。1990年代以降姿を消していたその生活は、フセイン時代が終わった後、徐々に復元され、水牛を連れた水の民が戻りつつあるらしい。戦争や紛争が行われている地域に興味がない高野は「ここだ!」と直感したようで、ここにおいてイラク水滸伝の旅が正式にスタートする。旅の仲間には、先輩冒険家の山田高司(山田隊長)と、ガイド兼通訳を務める在日イラク人研究者のハイダル・ダガー(ハイダル君)がいて、彼らと共にイラクを目指す。まずはいつも通り言語学習から入り、現地に溶け込みやすくする準備を行い、方言や歴史についても学んでいく。本書は、こういった前段階の準備や計画についてひとつひとつ丁寧に説明してくれるので、高野のわくわくした気分が伝わってくるし、イラク文化を全く知らない人にも親切な内容となっている

イラクは大きく「北部」「中部」「南部」に分けられる。「北部」のうち東側はクルド人の住む、いわゆる「クルディスタン」で、西側はアラブ・スンニーの多いエリア。中部はバグダードなど大都市が多く、スンニーとシーアが入り交じって住んでいる。そして、南部はシーア一色となっている。高野たちは「湿地帯を伝統的な舟で旅をする」ことを目標として、マンダ教の舟大工がいるイラン国境近くのアマーラを目指すのだが、南部にあるこの地域は降水量が少ないため農業や牧畜には不向きであり、さらに上記した複雑な民族・宗教間の違いにより長いことアフワールの人々は冷や飯を食わされてきたことがわかってくる。旅を通じて「湿地の王」ことアブデル氏や、湿地帯で名のある頭領ジャーシム・アサディ(ジャーシム栄江)と出会い、イラクでの体験が書かれていくので、異文化に触れ、彼らと仲を深めていく過程は、冒険小説やRPGのようでもあり読んでいて心躍る部分だった。
それ以外にも、イラクの国民的朝食「ゲーマル」の記述が特に気になった箇所で、これは水牛の乳を一日寝かせて作る生クリームやヨーグルトみたいなものらしく、とても美味そう。なんでも何も味付けしていない分フレッシュで、やわらかくなめらかな食感と、絹ごし豆腐のような重みやムラがあり、パンと合うらしい。た、食べてみた~い。

また、舟をめぐる冒険以外にも、湿地帯において失われた伝統技術「マーシュアラブ布」を探すことも本書の軸となる。このマーシュアラブ布はアガサ・クリスティがコレクションしていたとも言われており、鮮やかな赤やオレンジ、ピンク、黄色といった暖色系の糸で、曲線や菱形に混じって、花、家、人、動物などが自由に描かれたもの。イラクでは「アザール」もしくは「イザール」と呼ばれているらしい。別サイトになるが、マーシュアラブ刺繍を取り扱ってるサイトがあったので、どんな見た目が気になる人はここからどうぞ。

かつてクリスティはバグダードを訪れた経験があり、そのときの体験をもとに『オリエント急行殺人事件』や『メソポタミアの殺人』を書いたとのこと。というわけで舟旅と布探しの二大テーマを胸に高野の冒険記は進んでいく。

結構色んな人たちが登場するのだけど、それぞれの特徴を踏まえつつ、水滸伝の登場人物に置き換えてその人がどんな人なのかを説明してくれるので小説を読んでいる様な楽しさが味わえるのもこの本の特徴だ。登場するイラクの人々はみんな一発ギャグが好きだったり、とにかく客人にたらふく飯をふるまったりと人情に溢れていて、当たり前だけど「イラク人」と言っても色んなタイプの人々がいることを感じさせてくれる。また、舟を作る際に出てくる「ブリコラージュ」という言葉は、ここで暮らしている人たちの考え方の基盤のひとつであり、”あり合わせの材料を用いて自分でものを作る”というもの。それは、ほどよく文明や国家から距離をとり、気に入らないときや自分たちに不利益が及びそうなときは害を退ける彼らなりの生き方なのだ。私たち日本人の多くは完成された販売品を日常生活で使っているし、DIYを趣味としている人でもそこら辺に落ちている木の枝や葉っぱで補おうとまでは中々ならないだろう。湿地帯に住む人々の中にあるブリコラージュの精神は、私からすればすごく大雑把で適当で、同時にとてもおおらかで自由なものに感じた。
ちなみに現在のイラクでは(特に定住民の世界では)、女性は親族以外の男性と交流することが許されていないため、本書では女性がほとんど登場しない。結婚制度も一夫多妻制が可能となっており、男女間での格差を感じる部分でもある。その是非は置いておくとして、こういった意識の違いや文化の違いを知ることもまたルポルタージュの醍醐味だろう。

本書の基盤となる「舟づくり」も「布さがし」も様々な困難やトラブルに見舞われ一筋縄ではいかないが、作者である高野の人柄の良さや前向きさがこの本全体をコミカルで明るい雰囲気にしていている。そしてそういった「目的」があるからこそ純粋に読み物として面白く、そこで起きる問題に対して奮闘する姿がまぶしく映る。というか高野さん50代なのにすごい活力だよなあ……。情報量が多く470ページ近くある本だけど、写真や作者による絵も豊富だし、さくさく読めるのもおすすめポイント。

気になったのはあとがきにあるイラクの現状についてで、現在政治は相変わらず混乱しているものの、もはやイスラム国やアルカイダなどスンニー系過激派はほとんど存在感がなく、シーア派イスラム主義的な統治が確立されてる模様。そのため民兵組織も力関係が安定し、抗争が少なくなっているらしい。対してアフワールは深刻な水不足に襲われていて、状況は芳しくない。2020年から4年連続の大渇水で、水は減る一方。湿地帯における梁山泊の時代は困難を極め、もしかしたらこの先消えゆく運命にあるのかもしれない。結果的に本書は、そんなアフワールのリアルな文化を捉えたという点で貴重な資料になっている。

今を生きる。やれることをやる。それがここで暮らす好漢たちの心意気だと高野は言う。きっと「ブリコラージュ」という考え方の元には些細な事に捉われないそんな前向きな意識があるのだろう。読者の期待を裏切らない、時間と労力をかけた力作でした。

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