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【小説】神社の娘(第3話 橘平、夢のような出来事に空腹を忘れる)

 帰宅したのは朝5時くらいだった。

 橘平はぼーっとしたまま家に入り、ふらふらした足取りで自室に戻った。着替えもせず、ベッドの掛布団の上にぼすんと倒れこんだ。


◇◇◇◇◇

 

 空は次第に明るくなり、学校や仕事に行く時間が近づく。

 橘平の母、実花は少し心配になってきた。学校の日は7時前に起きてくるはずの長男が、7時を過ぎても音沙汰がないのだ。

「もしかして熱でもあるのかな。雪降ったから?」

 実花は食卓で納豆を混ぜながら、2階を見上げる。

「兄ちゃん、昨日ずっと家の中で犬と遊んでただけじゃん。それで熱でる?」と、弟の柑司。生意気盛りの中学生である。

「寝坊か?珍しいな。俺見てくるよ」父の幸次が立ち上がった。

「いい、いい。私行く。早く食べちゃって、ほれ」

 実花はとんとんとん、と軽やかに階段を駆け上がる。息子の部屋の扉を開けると、ダウンコートを着たまま、うつ伏せで爆睡する姿が目に飛び込んできた。「へええ!?」とすっとんきょうな声が自然とでてしまった。

「ちょっと、なんでこんな格好で寝てるのよ!」その声でも息子は微動だにしない。「きっぺー!!」そう耳元で叫んでも、ゆすっても、つねっても起きない。

 幸次と柑司も呼んで、いろいろ試みてみた。大音量で音楽を流してみたり、柑司が上に乗ってみたり。しかし、どうやっても起きそうになかった。

「あーめんど、ほっとこ、もう。一日くらい学校休んだっていいわ」

「じゃあオレも~」

「朝ご飯食べた人は行け」

 悔しそうな顔で柑司は階段を降りていった。


◇◇◇◇◇

  

 橘平が目覚めたのはおやつ時だった。

 目が開いても一時間くらいは何も頭に浮かばず、ぼーっと白い天井を眺めていた。

 体が水分を欲していることに気づき、のっそりと立ち上がった。頭はまだまだぼやけているが、しっかり眠れたのか、疲労感はさほどなかった。

 ダウンコートを脱いでベッドにほうり投げ、伸びをする。頭のてっぺんやカリアゲ部分をわしゃわしゃと掻き、顔を軽くたたいた。そして部屋の向かいにある2階のトイレに入って溜まっていたものを出し切ると、下の台所へと向かった。

 窓から外の様子を伺うと、雪はやんでいた。

 父は村役場、母は村の食堂、弟は学校。三人が出かけるためにか玄関周りだけは除雪され、飼い犬の大豆は敷石の上に佇んでいる。

 橘平はシンクの蛇口をひねり、ポップな恐竜の絵が描かれたマグカップに水道水をなみなみとそそいだ。ぐいっと一気に飲む。

「……水道水ってこんなに美味しかったっけ?」

 それからヤカンに水を入れ、火にかけた。シーンとした一軒家に、ふつふつした音が響く。

 急須に茶葉を入れ、マグカップにいっぱいにほうじ茶を注いだ。

 注がれる液体に、橘平は向日葵が淹れてくれたほうじ茶の記憶が沸き上がって来た。とても飲みやすい温度で、向日葵の人柄をあらわしているように感じた。

 橘平は遠い記憶のような昨夜の出来事を、頭の中で整理し始めた。時間だけみれば、今日の出来事でもある。真夜中に女の子と出会い、満開の桜を見つけ、巨大なバケモノに遭遇して、と振り返っていくうちに、実は夢だったのではないかと思い始めた。

 最後に向日葵と電話番号を交換したことを思い出し、マグカップをもって自室に戻った。

 ベッドに放ったダウンコートのポケットからスマホを探り当て、通知をチェックする。友達から「どしたのー?」「風邪か?」といったメッセージが入っているだけで、向日葵から連絡はなかった。

「まあ、あっちも疲れてるよなあ。つーか連絡くれんのかな、金髪の人」とスマホを持ちながら学習机の椅子に腰かけると、ぶるぶる、っとスマホが震えた。

 知らない番号からだった。普段なら無視する橘平だが、今日は反射的に電話に出ていた。

「はい、八神です」

『八神さんですか?こんにちは、一宮桜です。ひま姉さんから電話番号を教えていただきました』

 橘平は金髪から連絡があると思い込んでいた。まさかの電話相手に、電話を持ち返る。

「い、一宮さん!?…こ、コンニチハ…えっと、一宮さん、大丈夫?元気?」

『おかげさまで。それで、お話をするとお約束しましたが…今度の土曜日でいかがでしょうか』

 本当は今すぐにでも橘平は聞きたかった。しかし雪も解けきらぬ中、また夜に出歩くのもつらいものがあった。それに昼間は学生。それは桜も同じだろうと思われた。

 土曜日に会う約束をし、電話はそれで終わった。

 橘平は履歴から、桜の電話番号を登録した。〈一宮〉と入力したところで、さくらは平仮名かカタカナか、漢字か、どれだろうと疑問を持った。

 さくら。サクラ。咲良、咲楽…桜。どの字であろうと、あの木と同じ音。ひとまず、平仮名で入力した。


◇◇◇◇◇

 

 夕方、実花が食材の入った買い物袋を手に帰宅した。

 居間でテレビを見ていた橘平は「おかえり、おはよう」と声をかける。

「おはよう。じゃないよ」実花は買い物袋を食卓テーブルにどすんと置く。「今朝、なんであんな格好で眠ってたのよ」

 しばらく頭がぼうっとしていたせいで、橘平は家族からされるだろう当たり前の質問への対策を忘れていた。

 橘平はテレビのチャンネルを変えながら「夜中、外に出たらバケモノがいて、逃げ回って疲れた」と言ってみた。とっさにいいアイデアが思い浮かばず、おおよその真実を苦し紛れに話してみたのだ。

 彼の背後から大きなため息が聞こえた。

「もっとマシな冗談ないの?嘘つくにしても笑わせてよ」

 と、実花は息子にダメ出しをする。

「え、笑わせるって」 

「まあ、怪我してないから危ないことはしてなかったんでしょ。夜中に雪遊び?まだまだ幼稚園児だね」

 実花はエプロンを着け、夕飯の支度にとりかかった。

 危ないことはしてなかったんでしょ。

 橘平はその母の言葉に「めちゃくちゃ危なかったけどね」と心の中で返信した。

 台所からだんだんと夕飯の匂いがしてきたところで、橘平は猛烈な空腹に襲われた。起きてから何も食べていないことに、今気付いたのだ。

 

 余談だが、昨夜の電話帳は向日葵が眠気に勝てない橘平の代わりに入力した。

 〈美人でかっこいいおねえさん〉と登録されていることを、橘平はまだ知らなかった。



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