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【小説】神社の娘(第15話 橘平、自分を殴りたくなる)

 明日は土曜日。桜、向日葵、葵の3人がまた八神家にやってくる。

 橘平は学校の帰り、村唯一のコンビニに立ち寄った。明日のおやつとお茶を買うためである。

 これまで、友達が遊びに来ても家にあるお菓子や飲み物で済ませていたし、母に事前に話せば買っておいてもらえた。けれど、今回は自分で用意したかった。

 まず、お菓子売り場に足を運んだ。自分の好きなお菓子に手を伸ばすところ、今日は3人の顔を思い浮かべながら買い物をする。

 桜は一口サイズのチョコレートが似合う。

 向日葵はなんでも喜んで食べそう。

 葵は…よく分からない。

 古民家でもおやつが出てきた。彼らは何を好んで食べていただろうかと、橘平は記憶を辿る。ちなみに、それらは桜と向日葵が持ってきている。

 20分ほど歩き回ったりお菓子棚を睨んだ結果、橘平は厚焼きの醤油せんべいをかごに入れていた。理由は彼にもよくわからない。なぜかそれに決めてしまった。

 次にお茶の棚をのぞく。せんべいなら緑茶。緑茶なら家に常備されている。その場を去ろうとしたがある「紅茶」が目に入った。

 その紅茶は、よく家で飲む有名メーカー品ではなかった。この近くのお茶農家が作った、ご当地紅茶だと書いてある。

 緑茶も紅茶も同じ茶葉。せっかくなら、特別感のある方をみんなにふるまいたい。

 橘平はレジへ向かった。

◇◇◇◇◇ 

 彼らを迎えるおやつ類も準備できた。そして今日、期末試験が終わった。

 橘平は久しぶりに勉強する必要がない開放的な時間を過ごし、夜も11時をすぎたころ、電気を消し、ベッドにもぐりこんだ。

 自然と瞼が落ちてくる。

 突如、机の上のスマホが激しくぶぶぶぶぶと揺れた。

「わ!誰だよ、こんな時間に!」

 画面には〈きんぱつ〉。向日葵からの電話だった。明日のことで何かあったのだろうかと、急いで電話に出る。

「はい」

『あー!!!!!!!!』

 耳を刺すキンキン金切り声に、橘平はスマホを思わず投げ出してしまった。

『死にたい!!!!!!』

 死にたい。床に落ちたスマホからそう聞こえた。

 橘平はスマホを拾い上げ、確認するように発した。

「死にたい?どうしたんですか?」

『無能な私を殺して!助けてきーちゃーん!!ふえ~ん』

 声の様子から、どうやら彼女は酔っぱらっているようだ。雰囲気からすると、おそらく末期酔い。

 彼女はあまり酒癖がよくないのであろう。酔っぱらうことで、日常の不満を吐き出しているのかもしれない。橘平はそう推測した。

「何があったんですか?」

『あのね…』

 向日葵の語るところによると、葵にお姫様抱っこで2度も医務室に運ばれ、それが原因で職場内イジメを受けているらしい。母の話から葵は村のアイドルだろうとは思っていたが、橘平が想像する以上にファンは恐ろしいようだ。

『イジメる奴は弱い。私は強い。だからさ、ジメジメしたイジメなんかはどーでもいーけどさぁ…葵に…』

 お姫様抱っこされた姿を多くの職員に見られたことが、一番辛いらしい。

 葵ファンならば、彼にお姫様抱っこされた日には狂喜しそうなものだ。虐められるとしても、だ。

「仕方ないじゃないですか、向日葵さん倒れたんだし」

『分かってるよ!!!!!』

耳から血が出そうなほどの音圧で彼女は答える。

『それでも嫌なんだよ、葵に指一本でも触れられたくない、なんなら近づかないで!!』

「き、嫌いなんすか、葵さんのこと」

『うー、嫌いじゃない!』

 嫌いじゃないけど触れられたくない。彼女の言葉は矛盾している。

 森の中で手首をつかまれていた時の反応。つまりあれは、触れられたくなかったからということであろうか。

 では、彼のコートを羽織っていたのはどういうことか。行動も矛盾している。

『ってか私に近づいちゃダメなの葵は!あー!!!!あとねあとねー!ー!』

 とその後は、文法が崩壊した愚痴なのかなんなのか、意味不明な話を橘平は延々と聞かされた。

 酔っぱらいの話なぞ、真面目に聞いても仕方がない。橘平はベッドに寝そべって話を右から左へ流した。

 ただ、その中で気になる話題があった。

『数か月前?から?突然森に入れてえ』『よーぶつがきゅーに強くなっちゃってさあ』ということ。橘平が森に「好奇心で一度だけ足を踏み入れた」のは3か月前だった。

 電話の最後、向日葵はこう言った。

『葵の奴に関わるとロクなことない』

「イジメのことっすか?」

『とかさー!あーめんどくさ!のにさ!』

 これまでの酔っぱらいの騒がしさから、急に密やかな沈黙に変わった。

『…関わりたーい』

 電話越しに鼻をすする音が聞こえた。

 少年は生まれて初めて、誰かを想う切ない気持ちに触れた。

 橘平はまだ経験していないけれど、切ない気持ちを扱った作品を見たり読んだりしたことはある。

 しかし、知っている感情と「本物」の気持ちは全く別物だった。

 通話後も橘平はしばらく眠ることができず、天井を眺めていた。

 彼女の抱える複雑で切ない気持ちを感じ取りながらも、何もしてあげられそうにない。

 軽い気持ちで応援なぞ、できるものではない。

 自身の無力さと軽薄さを、殴ってやりたい橘平だった。

◇◇◇◇◇

 そして土曜。第2回目の蔵の捜索日がやってきた。

 本日は幸運にも、両親は街まで買い出しへ行っている。弟も友達の家に出かけた。

 何も気にせず動ける絶好の機会だが、橘平は昨夜の電話のことが頭にこびりついていた。

 集合時間も近くなり、橘平は庭へでた。ほどなくして、ピンクの車が見えてきた。

「おはよ~!元気~!」

 いつものように明るい挨拶をする向日葵。橘平は昨日の様子から、二日酔いかつ落ち込んでいるのでは、と思っていた。

「元気っす!向日葵さんも元気そうでよかった。昨日のあれ、大丈夫だったんですね」

「は?何が?」

「え?昨日の夜、俺に電話してきて」

「電話?は?私きーに電話したの?」

「もしやお酒の記憶ないタイプっすか…」

「え、ちょマジ、え?」

 酒を買った記憶まではある。飲んだことは枕元にあった缶で分かっていた。ただ、向日葵には飲んでいた時の記憶が全くない。

 ショルダーバックからスマホを取りだし、通話履歴を確認する。〈舎弟のきっぺい〉としっかり記録されていた。

「舎弟って」

「うえあ、の、わ、私、ヘンな事話したり…した?」

 予想外の動揺した様子に、橘平は正直に話すか躊躇した。

 引っ掛かるのは、話題の中心が葵だったこと。向日葵が葵に抱く複雑な感情を無視できない橘平は、昨夜の会話内容を包み隠さず話した。

 話していません。そう言ってもいいだろうが、彼女のためにならないような気がしていた。

 向日葵は一旦真っ青になり、そして次に体じゅうが火傷しそうなほど真っ赤になった。

 彼女は橘平の両肩をがっちり掴み、血走った目で「それ、誰かに言ってないだろうな!?言ったらどうなるか」と恫喝した。

 少年の肩は粉々になりそうなほど痛む。必死に声を振り絞り「あ、う、き、昨日の今日で誰に言うんすか…い、いたっ、し、ししぬ」と訴えた。

「なになに?内緒話?」

 向日葵の後ろから、桜がひょこりと顔をのぞかせた。

「ぎゃー!!さっちゃん!!!!何でもないのよ!!!!」

「え、気になるよ、そんな否定されたら」

「きっぺー!?」

「あ!えと、はい!何でもないです!」

 桜は無邪気な笑顔を少年に向ける。 

「えー、橘平さん、私にだけ教えてよ~」

 普段ならば和む表情も、今は苦しさにしかならない。

「や、やめてください、桜さん、俺の命が無くなります!もう聞かないで!」

「何やってんだ」

 橘平の命の危険の種である青年も、桜の背後から現れた。

 向日葵の情緒がもうめちゃくちゃであることは明らかだった。このままだと、橘平の肩は割れるかもしれない。

 危険を感じた橘平だったが、向日葵は何も言わず彼の腕をずいと引っ張って、蔵へとむりやり引きずっていった。

「どうしたんだろ、ひま姉さん」

「…さあな」

◇◇◇◇◇
 
 前回は、比較的新しい荷物が入っていそうな段ボールを端に寄せた。今回はその下に隠れていた年代物の入れ物を調べていく。

 大きくも広くもない蔵とはいえ、累積された品々を一つ一つ検めるのは、なかなか骨が折れる作業だ。

 黙々と作業をしていた4人だったが、桜が「そういえば」と話し始めた。

「村の周りに現れる妖物が強くなってきた、ってお父さんが言ってたんだけど」

「ああ、桜さんにも伝わってたか。そうだよ」

 これは昨夜、向日葵が電話で話していたことに関連しているかもしれない。橘平は詳しく聞きたくなった。

「あの、それってどういうことですか」

 当初は橘平を巻き込むことに反対であった葵だが、ここまで知ってしまっては何も隠すことはない。むしろ、知っておいてほしいと思い、部内で公開されている情報をすべて話した。

 先日のトラとの戦いも。休日にも仕事が増えそうなことも。

「俺も3か月くらい前、森に入りました」

 橘平以外の3人が、一斉に彼に注目する。宇宙人でも見たかのような顔で凝視され、橘平は異様な居心地の悪さを感じた。

「おい、今なんて言った?」

「3か月くらい前、森に入ったって」

「橘平さん、前、『森に入ったことない』って言ってなかった?」

「言ったっけ?」

「言いました!確か入口の話、どこからでも入ったことはありますか、って聞いたと思う」

「だから、『どこからでも』は入ったことないよ。南からは入ったことはあるけどってこと。葵さんたちが初めて入ったの2か月前でしょ、俺が3か月前だから、少なくともその時には森が開いてたってことか」

 3か月前というと、妖物が凶暴性を帯び始めたころと重なる。

 そもそも、村人はあの森に「近づかない」「興味を持たない」よう思考を操作されている。それが「なゐ」を封印し続ける仕組みだからだ。

 一宮家など村の支配層たちは、この事実を知っている。知ったうえで、彼らも近づかないようになっているのだ。

 桜たちは「先生」の教育を受けたからこそ、森に興味を持つことができたというのに、なぜ橘平は森に近づけたのか。

 3か月前に何があったのだろう。桜は「橘平さん、どうして森に近づいたの?」

「うーん、理由は特にないけど…興味?」

「本当にそれだけの理由か?」

「そうですけど…」

 誰も、それだけが理由とは考えられなかった。必ずきっかけがあったはずだ。しかし、橘平の様子を見るに、何も覚えていなさそうだった。

「橘平さん、何か…本当に小さなことでいい、森へ入る前に何があったか思い出せたら絶対教えてね!」

「ああ、うん。何かあったかなあ。頑張って思い出してみるよ」

 この箱は古い着物だ、と橘平は箱開けを再開した。

 3人も再開しつつ、この少年が森へ入れた時に何があったのか、という疑問が残り続けた。

 お喋り担当の向日葵が静かなためか、時間が遅く感じる。もう一時間は作業したかなと橘平が時計を確認すると、まだ10分しか経っていなかったり。

 驚くことに、時間感覚はおかしくとも腹減る。橘平がスマホで時間をみると、お昼時だった。体内時計は正確だ。

 今日はこの間より雰囲気が重い。昼ご飯は空気を変えるいいきっかけだと思い、少年は元気よく提案してみた。

「いい時間なんで、昼休憩とりませんか!?」

 桜は腕時計をちらと見、「ごめんなさい橘平さん、お昼ご飯の事なんて全然考えてなくて…」

「大丈夫!俺カレー作ったから!みんな食べて!」

「きーくんの手作りカレー?」

「はい。市販のルーなんで、まずくないはずです。葵さんの味噌汁よりは確実に美味しいです」

「ケンカ売ってんのか?」

「す、すいません、ジョークです」

 橘平は3人を居間に通し、座っていて欲しいと告げる。

 彼らは手伝うと申し出たが、一人でおもてなしをしたい橘平は、ひとつも手出しはさせなかった。

 カレーを温め直していると、向日葵がタッパーを橘平に差し出した。

「きーちゃん、これも一緒に出してくれるかな」

 中には卵焼きと唐揚げだ。

「ありがとうございます!じゃあ卵焼き唐揚げカレーにしますね!」

 これまで友達が家でご飯を食べるとなっても、母親が用意してくれた。

 でも橘平は今日、心から自分で作りたいと思った。料理の手伝いはたまにしている、カレーなら何度も一人で作っている。唯一、人に出せる料理だ。

 誰かのためにご飯を作って、食べてもらう。初めての経験、彼なりのおもてなしだった。

 3人に出会ってから初めてのことばっかりだ。橘平はカレーをよそいながら、これから出会う初めてにも期待していた。

 気分を変えるためのランチだったが、向日葵の態度は変わらなかった。これには困った。

「超おいしいね~きっぺーちゃん、料理うまいじゃーん!!」

 いつもの調子で話しているように見えるが、ほぼ橘平にしか話しかけない、橘平しか見ない。桜とはそこそこ。

 葵はいないもののように扱っていた。

 空気が、重い。

 桜と葵もそれは感じていたが、言い出せなかった。

 空気は一切変わらず、初めてのおもてなしはぎくしゃくしてしまった。

◇◇◇◇◇ 

 蔵検めを再開するも、なかなかこれといったものは見つからない。

 ただ、アルバム、着物、そろばん、家具など、八神のお守りの模様は、あらゆるものに施されていることだけはわかってきた。

 模様があるだけで、それが悪神の封印につながるとは思えない品々だ。封印について書かれている文献などは見つかっていない。桜はこれを期待していたのだ。

「うーん、特になんもないなー」と橘平は伸びをする。

「まだ箱はあるから、これからだよ、うん」と桜。

「そーだといいなあ」

 橘平は目の端で向日葵を捉える。やはり彼女の空気は重い。

 向日葵を気にしすぎて、自身も重くなりそうだった橘平は「俺、ちょっと厠へ行ってきます」 と、家に戻った。

◇◇◇◇◇ 

 春が近づいているとはいえ、まだまだひんやりする外気を橘平は思い切り吸い込む。トイレも済まし、多少、気分はリセットされた。

 玄関を出ると、向日葵が立っていた。

「ああ、向日葵さんもトイ」

 突然、彼女は橘平を抱きしめ「ごめんね」とつぶやいた。

「今日の私おかしいでしょ?自分でも分かってるの。普通に戻りたいのに…できないの」はあ、と向日葵は息を吐く。「本当にごめん、次に会うときまでには治すから…今日だけ許して…」

 橘平は電話越しよりも心が痛んだ。

 具体的なことは分からないが、向日葵は単純に葵に思いを寄せているわけではない。そう感じた。もう少し複雑、もしかしたら好き嫌いではないのかもしれない。

 橘平は自分より少し背の高い女性の背中に手を回した。

「誰だって調子悪いときあるじゃないっすか。俺もこないだ腹痛くて、授業中にトイレ行ったし」

 ははは、と彼女は弱く笑う。

「きっちゃんは本当に良い子だな。みんなが君のように素直で優しいといいのに」

 よりぎゅっと、でもとてもやさしく。

 しばらくの間、向日葵は橘平を、橘平は向日葵を抱きしめていた。

 女性に抱きしめられたらドキドキするのだろうか。橘平は漠然と想像したことがあった。人気の恋愛ドラマをみていた時だ。

 ドラマと状況は全く違うが、今、その場面に遭遇した。全くドキドキしなかった。むしろ橘平まで、切ないような、苦しいような気持ちだ。

 もとの元気な向日葵になってほしい。

 その気持ちで抱きしめていた。

◇◇◇◇◇

 橘平がトイレに立ち、続いて向日葵も外へ出たのをチャンスとばかり、

「今日のひま姉さん、ちょっと変だよね」

 桜は言いたくて言えなかったことを葵にこぼした。きっと葵も同じことを思っているはずだろうし、おそらく彼が原因だと桜は考えている。

「体調悪いんじゃないか」

「…葵兄さんの事、めちゃくちゃ無視してるじゃない。何かあった?」

 葵ももちろん、気づいていた。きっと橘平もわかっているだろう。高校生たちに気を使わせてしまって、葵は申し訳なかった。

 とはいえ、彼自身、向日葵がなぜ自分を避けるのか思い当たる節がない。

「何もない。よくわからん」

「職場以外でひま姉さんと会った?」

「会ってない」

「じゃあ職場か。さっき言ってたトラ退治とか」

「無事に終わったし、向日葵のおかげで駆除できたんだ。無視する要因はない」

「ほんとに?他に変わったこととか」

「そういや、終わった直後、疲れたからなのかその場で寝ちゃったんだよ。それが恥ずかしかったのか?」

 絶対違う。と桜は睨むも、葵にそれを説明できる証拠はなかった。

 向日葵は理由もなく人を避けたりしない。何かあるはずなのだが、葵は自分を含めてヒトに不器用である。要はにぶい。

 優しくて思いやりはあるけれど、そこが足りない。桜が幼少から抱く、第2の兄への不満だった。

「ただいま戻りました、よと」

 橘平が戻って来たのをきっかけに、二人の会話はそれで途絶えた。

「ごめんね~今日ちょっと具合悪くってさ、トイレ行ったらすっきりしたから、これからバリバリ箱開けちゃうね!!」と、向日葵も数分ほど後に戻って来た。「桜ちゃんも息抜きしなよ」いつものような明るい調子に戻っていた。

「あ…葵もお水でも飲んでくれば?」

 そこは硬さが残っていた。

◇◇◇◇◇

 蔵の窓から射す光が鈍くなってきた頃。 

「すいません、そろそろ親が戻ってくるはずだし夕方になるから、今日はここまでかなって思うんすけど」

「そうだな、じゃあ今日はここまでか」

 葵は立ち上がり、軍手を脱ぐ。

「特に収穫はなしか~。どーするー?また来週?」

「古そうな箱はだいたいあけちゃったんで、あとは段ボールっすけど…」

「古いほうが、と先入観に囚われてるのかもしれない。意外と最近の箱に何かまぎれてるかもしれないし、次はそっち見るか」

 次の集合日を決め、解散する流れになった。

 そこで橘平は思い出した。おやつを用意していたことを。

「せっかくだからお茶でも!」一生懸命な声で3人を呼び止めた。

「あらお茶まで!ありがと!」

 また居間にあがってもらい、紅茶とせんべいを出したところで、葵の電話が鳴った。

「すまん…課長?」

 葵は通話のために居間から出て行った。戻ってくると「すまん橘平君、休日出勤だ」と帰り支度を始めた。

「さっき言ってましたね、休日出勤増えるかもって…」

「あらまーかわいそ…」

 同僚をからかおうとした向日葵の電話も鳴った。〈感知器おじさん〉。つまり課長からであり、内容は葵と同じであった。

「きっちゃんごめんね、私も出動です…お茶は飲むから!」

 二人はまだ熱い紅茶をあっつ、と無理矢理流し込み、あわただしく玄関を出た。

 せんべいという「最後のおもてなし」も受けてほしい橘平は、急いで追いかけた。

「せんべい持っていってください!仕事の後にでも食べて!」

「うわー、ありがと!」

 向日葵は橘平に駆け寄り、せんべいを葵の分も受け取る。

「橘平、ちょっと」

 彼女は右手のひらを出した。

「書いて、こないだのあれ。なんかね、いいよ、あれ」

 あれ。八神のお守りのことである。

「喜んで」

 橘平は指で模様を描く。向日葵はぎゅうっと少年を抱きしめた。

「ありがとう。もしかしたらまた電話しちゃうかもっ」

 今度は不意にも、ドキドキしてしまった。彼女の吐息が耳に触れる。たぶん、少し顔が赤いだろう。

「…いつでも。あ」

 少年は彼女の耳に手をあて「葵さんと仲直りできるように、お守り書きました」と伝えた。

 向日葵は橘平から体を離し、手の甲をぎゅっとつねって早足で車へ向かった。



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