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【小説】神社の娘(第40話 橘平と桜、野宿の相談をする)

『日曜日に4人で会えたらって。八神さんちの神社の写真撮ったから見せたいし、あと今、私が家でしてることとか』

 

 先日の桜の提案により、午前中から古民家に集まった4人。朝から弱い雨が降り続くが、気温はさほど低くなく過ごしやすい日だった。

 早速、桜から八神家での収穫物の話があるかと思いきや、開口一番、桜は「ひま姉さんに野宿の相談がしたいの!」輝く瞳とともに話始める。長くなりそうだし自分には関係なさそうだと判断した葵は、新聞を読み始めた。

 まず橘平が、ことの起こり、つまり優真に「野宿した」と言い訳をしたことから説明した。

「あはははは!」古民家に向日葵の高い笑い声が響く。「それで野宿う!?ウケる!!」

「楽しそうだから参加したいの。それで、お父さんたちになんて言おうかなあって」

「ああ、それで野宿の相談、ってことね」

「ひま姉さんのところに泊まる、でいいかな」

 向日葵は笑いすぎて出た涙をぬぐう。

「えー、一人で野宿したいんだー、とか?」

「それはダメだろう」

 新聞を読みながらも、一応、話を耳にしている葵がつっこむ。

「はは、そうね。うん、私と遊ぶことにしな。でもいいねえ、キャンプみたいなもんでしょ?」

「はい、テント借りるし」

「楽しそう。私も友達とキャンプしたなあ」

「今、夕飯を悩んでるんすよ。無難に家で食べようと思ってたけど、優真がそれじゃあ野宿じゃないって」

「お家にカセットコンロある?あれと鍋があればさ、即席ラーメンできるじゃん。簡単じゃない?」

「わあ! お外でラーメン!?」桜がなぜか異様な食いつきをみせた。「それ、韓国ドラマで見た!というか、韓ドラのラーメンシーンってとっても美味しそうで憧れてたの。インスタントラーメン食べたことないから!」

 箱入り娘はアニメと韓国ドラマは見ているらしい、でも即席ラーメンは経験なし。

 橘平の心のメモが増えていく。これもまた意外ではあった。アニメもそうだが、桜がテレビを見る様子を全く想像できないのだ。

「じゃあそれにしよ。簡単そうだし。優真に聞いてみる」

「やだもー。ちょー楽しそう。私も参加したーい」

 雑談の一部で本気ではなさそうだ。が、優真と長年の友人である橘平は、もし向日葵が参加した場合、彼がどんな反応をするか想像してみた。

 その一。固まって挨拶すらまともにできない。おそらく固まったまま。みな優真に気を使い、キャンプは盛り上がらないで終わる。

 その二。挙動不審。二人とも気持ち悪がるかもしれない。野宿台無し。

 その三。興奮してべらべら喋りまくる。これも気持ち悪がられそうだ。うざいかもしれない。つまり楽しい野宿にならない。

 その四…五…六…。

 結論として、向日葵の参加は楽しい野宿にはならない。そう橘平は結論付けた。優しい親友なのだが、向日葵関連ではどうしてもいい情景が思い浮かばなかった。

「ああ、そうそう、見てこれ」

 桜が手提げからプラモデルを取り出した。先日、寛平とともに作成したロボット、クラシカだ。

「クラシカ・ハルモニ! おじい様と作ったの」

「わー、よくできてるじゃなーい。しかもヨハネスの機体じゃん」

 向日葵はプラモデルを手に取り、しげしげながめる。お気に入りの場面や泣けるシーンが次々と浮かんでくる。「うわーもう泣けてきた」と半泣きだ。

「車に乗ってた猫のぬいぐるみ! そうかあれ」

「そうだよ~ヨハネスのお友達、レオポルトよん」

「俺こないだ、友達んちでクラシカ第1期鑑賞会して。今度、ファイナルシーズンの第2期鑑賞会もするんす」

「えーいいなあ! それも楽しそう! 行きたいな! オタクさんの解説付きなんでしょ?」

 橘平がすることなんでも「いいな」と言い始めてきた桜。橘平としては「じゃあ来なよ」と威勢よく言いたいところだが、同年代男子3人と会うのはいいのかどうか。判断がつきかねた。

「ちょ、それ私も行きたいわあ……」野宿は軽い口ぶりであった向日葵だが、こちらには本気さがにじみ出ている。「オタクの解説って何よ、ちょそれ行きたいんだけどマジ。いついつ?土日?」さらに食いつく。

 向日葵が大好きな橘平は、彼女とアニメが観られるなら観たい。野宿だってそうだ。けれど、そちらにも優真が参加している。

 橘平は先ほどの想像を思い返してみるが、やはりいい結果は出てこない。喉から絞り出すような声で「友達の優真がですね、向日葵さんが好みのタイプ? っていうか憧れてて、ファンといいますか」

「へえ!?」向日葵は超音波のようなキーンとした声で反応した。

 3人はその声に、自然と体がびくっとした。

「ああ、あの、ですから、向日葵さんに間近で会えたらちょっと挙動がおかしくなりそうというか、気持ち悪くなるかなあというか、失礼を働きそうっていうか」

 向日葵は口角がこれ以上あがらないほどに上がり、めじりとくっつきそうである。

「やだー!ゆーま君、私が好みのタイプとか何よ~!隠れてないで話しかけなさいようっ!!」

「う、内気なもので」

「じゃあ私の方から話しかけないとね!鑑賞会行く行く、やだあ、モテキやっときたじゃん!!来ないと思ってた~!」

「子供にモテて嬉しいのかよ」

 またも葵が新聞をがさりとめくりながら、ちゃちゃを入れる。

「何歳だっていいでしょ!私と違って万年モテキの三宮葵さんにはわからないでしょーけどね。そりゃあ、優真君と付き合うとかはないよ。会ってもないのに失礼だけど。でもさあ、男女関係なく誰かに憧れてもらえる、好きになってもらえるって嬉しい。ちょっと自分に自信持てるじゃん。私、少しは人間として魅力あるのねーって」

「そーなんすか? 向日葵さんモテそうですけど。かっこいいし。俺、向日葵さんのこと超好きですよ」

「私もひま姉さんだーい好き! 付き合いたい!」

 高校生たちはそろって、今日の天気とは真逆な晴れ晴れとした笑顔で、向日葵に好意を告げる。

「ありがとう二人とも~! よし、じゃあ桜ちゃん付き合おうね~」

「いいなあ、桜さん。俺は~?」

「しょうがないなあ、きっぺーともお付き合いしてあげるわよん」

「いえーい!」

 橘平は隣に座る桜とハイタッチした。

 意味のない会話が葵の前で延々と繰り広げられる。

 それ以上に「きっぺーとお付き合い」で頭に来た葵は、「桜さん、今日はそういう話じゃないだろ」話題を変える。

「ご、ごめんなさい、お話に夢中で……」

「俺もつい盛り上がっちゃって、すいません葵さん……」

 感情を隠して何気なくふったつもりの葵だったが、高校生二人は叱られたと感じたらしく、頭を下げる。先程までの元気もゼロになってしまった。

 予想外の反応に、葵は困惑した。

「え、いや叱ったわけじゃないくて、その」

「うそー、アオ、めっちゃ怒ってる感じだったよ。びっくりした」 

 向日葵に指摘され、葵は子供っぽかったと反省した。

 桜はベージュのショルダーバッグからタブレットを出し、八神家で見つけた神社の写真を葵と向日葵に見せた。

「本当にそっくりだな。むしろあれのまんま。森と鳥居まであるのか」

「ここ見て、狛犬みたいなものもあるのよ。八神家も封印に関係してるんじゃないか、って睨んでるの。その解明はこれからだけれど」

「それと、これ。描いてみたんだけど」

 そう言って橘平がリュックから取り出したのはスケッチブック。開くと、あのミニチュア神社のデッサンが現れた。全体図のほか、後ろから見た図、屋根、森、などさまざまな各部が写真のように描かれている。3人は見事な描写力にあいた口がふさがらなかった。

「描くことというより、観察を目的に描いてみたんすけど」

「うっま…」

 向日葵の「それ以外何が言えます?」な感想に、他二人も激しく同意する。

「へへ、そうですかねえ。まあ特に何も分かんなかったんですけど、森のバケモノって狛犬だったのかなって。ほらあいつら、口開いてるヤツと閉じてるヤツでしたよね」

 そう言われて、桜たちはあのバケモノの様子を思い出す。

「多分そうだったかも~?」

 向日葵は小さな声で発言する。葵は無言だ。彼女も葵も、戦うことに必至でそこまで覚えていなかった。

「確かにそうだった!」桜はピンときたようだ。「森の中に狛犬。じゃあこの鳥居もどこかにあるのかなあ」

「この模型通りだとすると、森の近くに鳥居のミニチュアがあるってこと~?」

「今まで見たことないけど……犬の散歩ついでにちょっと探してみますね。草むらのなかとかに隠れてんのかな」

 また桜は寛平から聞いた情報をもとに、一宮家でまもりに関する物を探していることも報告した。今のところは特にめぼしいものは見つかっていないという。

「まじで?お家広いから、一人で探すの大変でしょ。私もやるよ」

「俺も手伝う」

 向日葵と葵がそれぞれ答えた。

「ほんと?じゃあ、今度来てもらおうかな」

 ここで橘平は戸惑った。

 自分も手伝いがしたい。俺も行くと答えたいけれど、若い男性と会ってはならない桜の家へ、一宮家へ自分が行っていいものなのかが分からなかった。

 橘平の表情から察した向日葵は、何か助け船が出せないかと悩んだ。しかし、早々と桜が解決した。

「橘平さんも一緒に来て!友達の家なんだし!」

 喜びを深く感じる前に橘平は声を発していた。

「いいの!?」

「うん!」

 しかし直後「でも、男の子のお友達ができたなんて正直には言えないからどうしよう」問題がやはり発生した。

 向日葵がフレッシュ入りのコーヒーを飲みながらさらっと提案する。

「んなのさあ、私の友達にしちゃって、自由研究でお伝え様見学に来たとかいえばいいのさ。ほら、きー坊は役場の職員の子よ?私が面倒見てるって感じで通るじゃん。その時さっちゃんは…出かけたふりするして合流するとかね」

「おお、じゃあそれでおねしゃす!!」

「いえーい、解決!」

 と、橘平と向日葵はグータッチした。

 そこまでは良いとしても、結局、社会人のことを考えると捜索は土日に限定されてしまう。

「有休か」

「でもさ、いま有休取りにくいっていうか却下されるらしいじゃん。伊吹さん、お子さんの用事で有休申請して感知器にねちねち言われてた。そして取らず…ぶらっく」

「有休って難しいんすね」と橘平がこぼす。

「去年まではヒマで取りやすかったのよ~今年が異常なんだよ~」

 桜は何かを考えていたようだったが、「ねえ」とみなに呼びかけ「みんなで探すならさ、お伝え様の桜まつりの期間はどう?学校始まっちゃってるけど、この時期は神社が忙しくて、家の方はがら空きだから。その土日で。これなら有休取らなくていいよ」

 住人である桜の意見がもっとも、とこの件は解決した。気がしたが。

「ああ、そうだ、きゅーじつしゅっきん!ちょっと待って」

 そう、社会人組は地獄の休日出勤があり、土日だからと言っていられない現状があった。向日葵と葵はさっと課内のスケジュールを確認する。まだ、その日の出勤者は確定していなかった。

「すまん、決まったら連絡する」

「ああそうか、未成年とか他のオトナが使えるようなら、土日に入れてくんだっけ。スケ確定は来週以降か~」

 頬杖をついてままならぬ休日に悲しみを感じていた向日葵だが、ふと視線をテーブルに移すと、それぞれのカップが空になっていた。

 だいぶ長々と話していたし、みな喉が渇いたころだろう。「あら、もうみんなドリンクないね~。日本茶でいいかな。入れてくるね」と、台所へ向かった。

◇◇◇◇◇

 ヤカンに水を入れ、火をかける。

 沸騰までの長いようで短い時間。シンクに両手を置き、向日葵は台所の窓の外をぼんやり眺めていた。雨粒が窓ガラスをとろりと伝う。

 横に葵がやってきた。

「さっきの有休の話、ちょっと思ったんだが」

「何を?」

「同じ日に有休申請するのって、偶然って思ってもらえるのか。それとも」

 この不器用が一体、どんな面白いことを言ってくれるのか。向日葵は少し期待する。

「俺に嫌がらせか、って課長なら言うかもな。残業したくないから」

「は?」

 期待するような言葉はなく、向日葵は肩透かしをくらってしまった。

 最近の彼の様子からすると、色気のあることを言ってくれそうな感じがしてしまったのだ。

「まあ現状、同じ日に2人消えるわけにはいかないな」

 それだけ言うと、葵は茶箪笥から緑茶の入った茶筒を取り出し、向日葵が洗っておいた急須に茶葉を入れ始めた。

 肩透かしも何も、二人の関係を邪推する者は部内にはいないし、邪推されたら何が起こるかわからない。絶対されてもいけない。

 自分から葵と距離を取っているというのに、何かを期待する。向日葵はもやもやと切ないと悲しいと諦め、自分への戒め、そんな気持ちがいっしょくたになってきた。

 そのすべてを盛大なため息に乗せる。

「どうした?」葵は声をかけ、向日葵の顔を覗き込む。

 橘平に出会ってから、葵は少し感情的だ。菊が亡くなって以降に抑えていたものを、少しづつ吐き出すように。

 不断の熱を抱き続ける真っ黒な瞳に見つめられると、自分の決意が揺らいでしまう。

 覗き込まれると同時に、向日葵は葵の左耳を引っ張った。

「いって!!」

◇◇◇◇◇

「ねえねえ、鑑賞会本当に行きたいんだけど。ひま姉さんも興味あるみたいだし2人で行ってもいいかなあ」

「優真がなあ」

「お友達、挙動不審になんてならないよ。ひま姉さん話しやすいし、すぐ打ち解けるって。親しみやすい、会えるアイドルだよ」

「アイドルかあ…恩返しに向日葵さんを招待するのもアリ、か」

 真冬のイルミネーションのように一斉に。ぱあっと明るい笑顔が点灯する。

「ありがとう! 私、橘平さんのお友達ともお友達になれるかな」

 まあ変だけどいい奴らだよ、と返したが、自分以外にも友達が増えていくことに多少のさみしさもあった。先日「クラスメイトとお近づきになれた」という話を聞いた時も、胸がチクリとした。

 桜は自分だけのものでもないし、むしろどんどん、友達を作るべきだ。

 橘平だって友達はいる。桜だけが友達じゃない。よく分からない感情で気持ち悪いけれど、桜の一番の友達というポジションだけは守りたいと思うのだった。

「ああ!!」

 桜が突然、大声をあげる。

 台所から向日葵が飛んできた。

「どしたのさっちゃん!?ゴキ!?」

「違うよ、今日の大事なコト、もう一つあった。忘れちゃうところだった」

 桜はにっこりと笑いながら、スマホの画面を向日葵と橘平に見せた。

「ネイルアート」

「あーそうだ!ちょい待ってて、車から道具持ってくる~!!」

 本日は野宿相談、八神家での収穫物のほか、春休みに入ったということで橘平が桜にネイルアートを施すことになっていたのだ。ついでに向日葵にも。

 どんなネイルにするかは、事前に桜から画像が送られてきていた。ピンクをベースにサクラや猫の絵があしらわれたデザインだった。

「とにかく可愛くお願いしまーす」

「か、かわいく…了解っす」

 道具を借りた橘平は、早速ネイルアートに取り掛かった。

 しかも桜と向日葵、乾かす時間を利用して二人同時に描くという。

「まじで?きっぺーちゃんまじで?」

「はい。できると思うんで」

 「可愛く」という注文通りにできるかという自信はあまりなかったものの、あっという間に描かれていくサクラや猫の絵に、桜は感動していた。

 葵はその様子を、お茶を飲みつつ眺めていた。ネイルのことはよくわからないが、橘平の作業量がすさまじいことは分かる。絵の練習はしていたそうだが、ネイル自体は向日葵に施術して以降は何もしていないという。そんな人間の仕事とは思えなかった。

「はい、まず桜さん終了」

 絵柄も色合いも、桜が送った画像通りに仕上がっている。この出来上がりに桜は「可愛いよ! わー、可愛いよ! カワイイよ!」と大変満足した。

「ホント、もう、さっちゃんにぴったしの可愛らしさよ~きっちゃんアートのてんさい~」

 桜は葵に「見てみて」と両手を顔の前に挙げた。

「見事だな。お父さんのアクセサリーもキレイだったが……」

「きーくんさあ、いい特技だわこれ。お金になる。いや取ったほうがいい。お金払うね」

「ええええ、いいっすよそんな素人」

「そのくらいの価値あるよ、橘平さん。プロよ。今度お母さまにも塗ってあげたほうがいいよ」

 絵を描くのは嫌いじゃない。楽しい。まさか趣味を活かすことで人に喜んでもらえるとは思わず、ただただ驚く橘平だった。

 そして向日葵のネイルも終了した。前回頼まれた「好きなキャラ」ではない。春らしくチューリップを描いたデザインだ。

「さすがに、職場でキャラネイルはどうかなってさ…ブナンに…」

「えー、せっかく練習したんすよ」

 橘平はスケッチブックの練習跡を向日葵にみせた。

「はあ!?なにこれ、かっこよ!?え!?」

 描かれていたのはクラシカ・ハルモニのキャラ達。AIのような絵といわれる橘平らしく、模写も完璧だった。キャラクターの表情や全身の絵のほか、名場面の模写もある。

 鉛筆画の上から、水彩絵の具で軽く彩色されているが、その濃淡や陰影も美しく「練習」という表現は向日葵には適切とは思えなかった。

 これはすでに作品である。

「私も見たい、見せ……うますぎて引く」

「ひ、引かないで桜さん、そんなうまくないから…」

「本当にさ、主人公、葵兄さんに似てるよね。特に橘平さんが描いたのは」

 桜はともにスケッチブックを鑑賞する向日葵に振る。

「やだあ、ヨハネスとそこのメガネじゃ比べ物になんないよ」

「そーお?」

「ヨハネスは愛のために命を捨てられんだからね。そんな人間は現実にホボいない!いたら好き!すぐ大好きになる~!」

 そう言って、向日葵は桜を抱きしめた。

◇◇◇◇

 

 次に4人で会うのは桜まつりの日だ。

 それまでに、桜単独で家の捜索、橘平は犬の散歩ついでに鳥居探し。そして野宿の会。成人組は辛い通常業務の日々である。

 桜はバイクに乗って帰っていったが、本日、橘平は向日葵に送り迎えをしてもらっている。ピンク軽に乗り込もうとしたが、橘平は「すいません、忘れ物」古民家へ戻った。

 玄関を開けると、葵が湯呑を持って台所へ向かうところだった。

「忘れ物か?」

 橘平は家にあがり「ちょっといいですか」と葵に近づく。

「実はこの間、酔っぱらった向日葵さんからまた電話がありまして」

 葵の表情を読もうと、しっかりと彼の黒い瞳を見つめて橘平は話す。

 心を読ませないような無表情だが、瞳が揺れる。

「あの時、向日葵さんの隣に誰かいたっぽくて。それが誰だったのかが気になってるんです」

「…なんで気になるんだ?」

 もし隣にいたのが葵ではなかったらと考えると、この話題はするべきじゃなかったかもしれない。

 そう思うも、尋ねるべきだと橘平の心は誘導する。

「心配ですよね、向日葵さんがお酒を飲んだら。隣にいたのが葵さんだったら、葵さんが側で心配できるから」葵の瞳を探る。「そうだといいなって」

 頑なに引き結ばれていた葵の口元が緩んだ。

 「…俺だよ。隣にいたの。舎弟のきっぺいに電話したの、見てた」

 橘平はほっとしたと同時に、隣に居たのが彼で良かったと心底思った。向日葵が弱いとき、頼るのは橘平であってはならない。隣には葵が必要だ。

「近くで心配できて良かったですね」

 葵は橘平の頭に手を置き、上から抑えつけるように髪をぐしゃぐしゃにした。

「電話の内容、誰にも言うなよ。向日葵にも絶対」

 橘平は頭を押さえられたまま「それは、はい、絶対守ります!」と答える。

 乱暴な手つきだが、優しい体温。これは怒りでも何でもない。橘平に見透かされた照れや恥ずかしさから、顔を見られたくないだけだ。

 気持ちが落ち着いたのか、葵は橘平の頭から手を離した。

 ゆっくりと頭を上げた橘平はもう一つ、気になっていたことを質問した。

「ところで話に出てきたポンコツって葵さん?」

 葵は下駄箱の横の箱から靴ベラを取り出し、「メガネ外すぞ」と脅す。

 今度は怒りだ。橘平が必死に謝っていると、「きっちゃんまだー?」という大声とともに向日葵が玄関を開けて入って来た。

 葵は靴ベラを背中に隠し、橘平は急いでスニーカーを履いた。

「す、すみません今行きます!」

「なんで髪の毛ぐちゃぐちゃなのよう」

「ぐ、ぐちゃぐちゃにしたら葵さんみたいにかっこよくなれたりしないかなーみたいな」

 橘平は先ほどの話題が口からカスほども出ないように、言い訳する。しかし全くうまくない。

 向日葵はそのことを本気で言っているのか、何度も橘平に確かめるような気持ちで「意味わかんないけど?」

「たまたま、葵さん見てそー思ってなんとなく」

「アオイ、イジメてないよね?」

「イジメるわけないだろ」

「ま、そうよね。きっちゃん、面白い突然ナゾ行動だけどさ~葵君を真似しちゃだめよ。朝起きたままなだけなんだから。フツーは清潔感ない人にしかみえないよ」

 向日葵はハンドバックから折り畳みコームを取り出し、整えてやる。

「そーっすよねえ! なんで葵さんは不潔じゃないんでしょーね? ふしぎー?」

「特殊なのト・ク・シュ」

 黙然と口を閉じたままの葵だったが、「……褒めてんのか貶してんのか」手櫛を入れながら複雑な胸の内をこぼした。絹糸のような細く、そして聞こえないような声。向日葵は聞こえなかったようだが、橘平はしっかり内容がわかり、心の中で必死に謝った。

「見た目が良いって得よね~私なんかメイクしなきゃならないのにさ~」

「……向日葵さんだって、すっぴんカワイイじゃないっすか」

「うふふ、お世辞ありがと。そうそう、帰りにうち寄ってくれる?ちょっと帰るのに時間かかって申し訳ないけど」

「向日葵さんち?」

「義姉さんとタケノコの煮物とかご飯とかいっぱい作ったのよ。お家の人と食べて」

「あ、うちも父さんがタケノコ取ってきました!」

「そっか~」

 などいいながら、二人は玄関を出ようとした。

 その二人の後ろから声がかかった。

「俺にはないのか?」

 その声にぴたりと向日葵は立ち止まり、「な・に・が?」と言いながら声の主を見る。橘平もそちらに振り向く。

「いや、俺にもタケノコご飯とか、夕食に」

「子供か!自分で作れ!こないだ料理の極意を教えてあげたでしょ!」

 ぴしゃんと向日葵は玄関を勢いよく閉めた。

「いいんですか、タケノコ」

「いいの」

 少年は車での葵との会話を思い出す。

 天然じゃなくて、そう振舞ってるのかもしれない。

「向日葵さんに甘えたいのかなあ」

「……前はあんなこと言わなかったよ」

 やはり、橘平と出会ってからの葵は感情的だ。

 向日葵はそう思いながら、軽自動車に乗り込み、人差し指で唇を軽く押した。


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