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【小説】神社の娘(第38話 向日葵、土下座する)

「本当にごめんなさい本当にごめんなさい本当にごめんなさい本当に…」

「いやもういいから、済んだことなんだし」

「だめよ、葵ちゃん!優しすぎる!」

 二宮向日葵は酒で大失敗したことを、早朝から被害者に土下座で謝罪していた。

 葵に酒を飲ませたところまでは思い出せたが、その先は一切、記憶にない。

◇◇◇◇◇

 樹は朝5時頃に葵の住む古民家にやってきた。そのことは昨夜の電話で聞いていたので、葵もその頃に起き、樹を迎え入れる。その玄関の開くガラガラ音で、加害者たる向日葵は目が覚めた。

 ちょうど横向きで寝ていた彼女は、目覚めると真っ先に隣の布団が目に入った。

 寝相が悪く、布団からはみ出てしまったのだろうか。ぼんやりとその考えが浮かんだが、しかし起き上がると、しっかり布団に寝ていたことがわかる。

「ええ?わたし二組敷いて寝たのぉ??」

 のどの渇きを覚えた。そこに意識が移ると、口内に異様な気持ち悪さを感じた。

「うわ、なにこれ」

 それに気づくと、頭の靄が晴れ始めた。春のひんやりした朝の空気が向日葵の脳を刺激する。彼女の住む離れも和室、今いる部屋も和室ではあるが、見える景色が異なっている。

 部屋の中をゆっくり見回すと、物が少ない簡素な室内に日本刀が置かれていた。

「ああああ、あれあああああおい」

 ここが自分の部屋ではないことを理解してきた。

 自身の体にも違和感を持った。普段の着慣れた感覚がない。目線を下げると、見慣れた自分の服ではなかった。大き目の黒いジャージだ。袖が長く、手のひらにかかっている。

「え?え?このジャージ…」

 徐々に昨夜の記憶がよみがえる。葵に酒を飲ませるところまで思い出し無意識に「ぎゃーやーっ!!!!!!」と古民家中に聞こえる大声をあげていた。

「起きたな、ヒ・マ・ワ・リ」

 そんな声だからもちろん樹と葵にも届いていた。樹はこれまで葵が見たことないほど、背筋が凍るような顔をしていた。

 普段は笑顔なので忘れがちであるが、彼は岩のような体つき、岩のような顔をしている。怒ったら鬼のようになるということを、初めて知った葵だった。

 だだだ、と足音が聞こえた。

「ごめんなさーい!!」

 向日葵が謝りながら居間に飛び込み、土下座した。

「向日葵、酒禁止!この間は僕だったから何も言わなかったけど、人に迷惑をかけることは絶対に駄目!」

 いつもの柔らかな語調はなりをひそめ、激昂する樹。声が家中に反響し、天井や壁が震えている。そもそも、彼は妹をきつく叱ったことがない。悪さをしたとしても、優しく諭すだけであった。

 あまりの迫力と初めての樹の様子に、そばで見ている葵は驚きを通り越して、珍しいショーを見ている気分になってきた。

「申し訳ありません、肝に銘じます。葵さん、ご迷惑おかけしました」

 向日葵は額をカーペットにこすりつける。

「だからそんな…」

「あっま!!アオイ、あっま!!一言でいいから、厳しく言いなさい!」

「き、厳しく……?」

「人様への迷惑もそうだけどね、あなた、ぶっ倒れちゃったのよ。急性アル中よ!」顔をあげられず、土下座したままの向日葵の肩に、樹はそっと手を置く。「体壊しちゃったらどうするの?僕、ひまちゃんのことが大切だから、心配なんだ……」

 心から妹を思う気持ちが凝縮された声。向日葵は顔を上げる。

「兄貴……」

「お酒を飲んだ理由は追及しないけど、悩むにしても、もっと自分を大事にしてね。いろいろ吐き出せるお友達、ひまちゃんならいるよね」

 向日葵の目頭がじんわり熱くなる。急いで手の平で目を抑えた。

「本当にごめんなさい、葵。無理矢理お酒飲ませたあげくに、泊めてもらって。私、他にどんな迷惑かけた?物壊したりしたなら弁償したいし」

「ぶっ倒れただけだけ。俺も樹ちゃんも酒入ってたから送ってやれなくて、うちで寝ててもらっただけだから。もう気にするな」

 正座して無言のまま視線を落とす妹に、兄は着替えとメイク道具が入ったトートバッグを渡した。

「よう子っちが用意してくれたから」

「ひええええ義姉さんにも謝らないと……」

「親には話してないし、聞かれても友達と遊んでたとか適当にごまかしておくから。安心して。葵ちゃんとはいえ、男の家にいたなんて言えないし、迷惑かけたなんて余計、ね」

 向日葵は再び土下座した。

「ありがとうございます。一族の面汚しを」

「やっだ、そこまでじゃないわよ、これくらい~」

 機嫌が戻って来た樹は、戯れのつもりで向日葵の背中を叩いた。背骨が割れそうだった妹だが、罪の意識から痛いなどと声は上げられなかった。

「さてと。早く着替えて、葵様に高級ホテルモーニングでも作ってやんなさい!」

「は、はい、いますぐ」向日葵は立ち上がった。

 樹も立ち上がり、「じゃあ、僕帰るね。ひまちゃん、今日はここから出勤よ。じゃあまた職場で会いましょ」そう言い、帰っていった。

 兄を嫌いだという向日葵だが、妹思いの良い兄だし、最終的には向日葵も頼る。本心では信頼しているのだ。

 葵が思うに、厳しい両親含め、周りの大人たちに心を隠して育ってしまったがゆえに、いくらでも受け止めてくれる年上の逞しい兄に「反抗期」なのだ。

「あの、じゃあその、お風呂場をお借りしていいでしょうか。それからご飯作ります…」

「ああ」

 向日葵は着ているジャージの胸部分をつまむ。

「あのう、私なんで葵のジャージ着てるの?」

「そっか、さっき俺も樹ちゃんも言わなかったな。吐いたんだよ、向日葵」

「げ……!!」

「服がゲロまみれになったから洗った。乾いたら返す」

「ひいいい。ま、また、葵には、吐いたんだああほんと、ほんと、ごめんなさい…あの私、ゲロって倒れて、あとは何かした…?」

 葵は「それだけ」と返した。

 実はもっとひどい「電話」がある。だが聞いてしまった橘平も、この話題を出すことはないはずだ。

「そうだ、買い置きの歯ブラシ使って。戸棚に入ってる。気持ち悪いだろ、口ん中」

「うう、ありがとう…」と向日葵は静かに風呂場の方へ消えていった。

◇◇◇◇◇

  クリームイエローのストレートパンツとボーダーニットのオフィスカジュアルに着替えた向日葵は、さっそく朝ご飯作りにとりかかった。メイクはそれなりの時を要するのですっぴんだ。

 やっぱり隣には葵がいて、手際よく卵を割っている。

「タマゴさんはキレイに割れるのね」

「知ってんだろ。よく卵かけごはん食ってたの」

「そうでした」向日葵は手際よく卵をかき混ぜた。

 朝ご飯は厚めに切ったバターを載せた6枚切りトースト、スクランブルエッグ、野菜炒め、味噌汁。居間のローテーブルに運ぶ。

「大したものではありませんが、お召し上がりください!」

「美味しいんだから大したもんだよ。いただきます」

 パンには洋風スープが定番だが、向日葵は「酒を洗い流してくれそう」な味噌汁を飲みたい気分だったという。「味噌煮込みうどんあるしな。同じ小麦だ」と葵は言った。

 味噌汁をすすりながら、葵はふと「あったかい気持ち」になったと気づいた。

 橘平のお守りは効く。

 不思議な有術である。もしかしたら魔法だろうか。そう感じた葵だった。

「なんでニコニコしてるの?」

「…そこに朝グモがいたから」

「ふーん。そーいやさ、私、自分でジャージに着替えたの?」

 スクランブルエッグを口にしながら葵は「俺が着替えさせた。気絶してたからな」

 向日葵は半分食べたスクランブルエッグの上に箸を落とした。

 真っ赤になっていいのか青ざめていいのか。感情が混乱し、どんな表情をすべきか顔の収まりがつかない。

「何にもしてないから安心しろ」

 それは体の状態をみればわかるし、葵が何かするはずはないという信頼はある。

 嘔吐の処理してくれただけではない。洗濯、そして着替えまでしてくれたという。子供のころから一緒、お互い、情けない姿や恥ずかしい失敗は嫌というほど知っているし見てきている。

 今回は今まで以上の醜態をさらしてしまった。それでも向日葵を怒らない、恨まない、いつも通りに接する。

 自分は葵の行為に腹を立て、無視したりしたというのにだ。葵の事を子供っぽいと感じることもあったけれど、実は自身の方が子供で心が狭かった。彼の誠実さに感謝しつつも、向日葵は自分の愚かさに嫌気がさした。

 葵は彼女が落とした箸を拾い、台所で洗ってまた持ってきた。

「早く食って仕事行くぞ。化粧の時間もあるだろ」

「ありがとう」箸を受け取り、食事を再開した。

◇◇◇◇◇

 

 朝食後、向日葵はいつもの倍の速さでメイクを終えて葵より先に出勤した。

 職場には、すでに樹がいた。

 いつもなら無視をする向日葵だが、今日は「…おはよう」と声をかけた。樹は役場を破壊するほどの大声で狂喜したという。

 こういった兄の大げさな反応が苦手で、心の中で「嫌いだ」と叫ぶ向日葵であったが、その日を境に、樹に挨拶するようになった。そう感じるものの、向日葵自身も似たような性格なのである。

「なんだよ朝から大声で」蓮が出勤してきた。

「ああん、ごめんねえ。超嬉しいことあったからさあ」

「おはよう蓮君。兄がご迷惑を」

「別にいいけど。そういやひまちゃん、昨日、具合悪かった?」

「元気だったけど…」

「ホントに?アレに負けるなんておかしいでしょ」

 アレ、とは葵の事。昨夜の躰道の稽古で、向日葵が今まで勝ってきた相手に負けてしまったのだった。

「油断、ですかね~たまにはそーいうこともありますっ!次は負けない!」

「珍しいね。油断ってさ、足でもすべった?最後の蹴りの時に」

「え、あー、そうなのかなあ…」

「記憶にない?」

「ないです」

「じゃあ何、素顔に見惚れたとか、そんな俗な事?」

 向日葵は、急に体温が下がったように「やめてくださいよ…ちっこい時から見てるあの顔、メガネ有りでも無しでも、何も感じませんから…キモイです、その質問」と蓮に半目で返す。

「そうだね、ごめん。僕らはあの見てくれがマネキンだと知ってる二宮同士だったな。昨日は疲れてたんだろうね。でも、次は本当に勝ってくれないと困るよ。アレの負ける姿が見たいのに」

「はあ……最善を尽くします……」

 その話題が始まる直前に、葵は席に着いていた。

「あれ、君いたのか」

 本当は気づいていた蓮だが、わざと無視して向日葵に話題を振っていた。

「…おはようございます」

 その後、「オレを見かけたらすぐ挨拶しろ」「存在感出せ」などと、朝から蓮にねちねち言われた葵だった。

◇◇◇◇◇

 

 お昼を食べ終え、向日葵は人気の少ない役場の裏で、しゃがんで空を眺めていた。いい意味で言えば歴史を感じる建物の壁にもたれかかる。

 穏やかな空とは裏腹に、彼女の心は曇っていた。葵のせいで心を乱されっぱなしであったが、今回はすべて自分の落ち度。なぜ酒に頼ってしまったのか自分でも自分の気持ちがよく分からなかった。

「言いたい事、全部言えたのかなあ……」

 葵に尋ねたいけれど、失態の事が頭に浮かぶ。「きっと伝えた。そんな気がする」中へ戻ろうと立ち上がると、作業服のポケットから音が聞こえた。スマホを取りだすと桜からの電話だった。

「もしもし、どしたの」

『今お昼ご飯の時間だよね?ちょっといい?』

「うん。なあに?」

『日曜日に4人で会えたらって。八神さんちの神社の写真撮ったから見せたいし、あと今、私が家でしてることとか』

「うん、わかった」

『あとそう、ひま姉さんに野宿のことも相談したいの。葵兄さんにもこれから連絡するね。じゃあ日曜日』桜は通話を切った。

「野宿?」

 日曜に聞けばいいだろうと、向日葵は電話をポケットに戻した。

 

 席に戻りパソコンの電源をつけると、スマホの振動を感じた。

 次は目の前に座る葵からのメッセージである。ちらと葵の方をみやる。彼の方は下を向いていた。

〈ジャージ、今日には乾くと思うけど〉

〈ありがと。日曜に受け取るよ〉

〈日曜?〉

〈さっちゃんから連絡来たっしょ?〉

〈二人がいるのに渡していいの?〉

 目の前でジャージの受け渡しが行われた場合のシーンを想像した。なぜかと、桜はたちは尋ねるかもしれない。

 嘔吐がバレる、飲酒がバレる、泊ったのがバレる、かもしれない。それに囚われて嘘を考えるとか、早めに行くとか、他のアイデアを考える余裕のない向日葵は大混乱した。飲酒はすでに橘平には筒抜けであるが、向日葵は気づいていない。

 向日葵はスマホを手に立ち上がって「だめー!」思わず声を上げていた。

 隣席の蓮が驚いて問う。

「な、なにが?どうしたの?」

「あ、あああご、ごめんなさい、ちょ、と、友達が変なコト言い始めてえ~なはは」

 隣の課の人間まで向日葵を見ていた。「お騒がせしましたぁ…」と小さな声であやまり、ゆっくりと椅子に座った。

〈じゃあ今日の夜か土曜に取りに来いよ〉

〈りょ!〉

 まんまと葵に誘導される向日葵だった。ちなみに職場での受け渡しが論外であるのは、葵も分かっている。


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