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母親は所詮、肉の親

母との仲は良い。けれども私は腹の底で怒っていた。


子供の頃は親が世界の全てで、たとえ親がどれだけ未熟であろうが子供は親を頼らざるを得ないし、必死に愛そうとする。


大人というものがかなり未熟であることも知らなければ、純粋に親に憧れ、甘え、期待していた。


大人になるにつれていろんなダメなところが見えてきて、失望していく。


「おや?どうやら私の親はあまり賢くもないし、強くもなければ、考え方もそこまで柔軟ではないらしい。」

と気づき始めた時

「なんだよ!嘘つき!
強がって何でも出来るふりしやがって!」

「弱いならちゃんと弱いって言えよ!」

という想いが湧いてきた。


今はずーっとおんなじ事でめそめそしてるし、
私を育てる上で自分を後回しにし続けて、
私から手が離れてからは自分を見失ってるようにさえ見える。

私にはどうしようもない根深い問題もたくさん抱えてる。

私を育ててくれてる期間を振り返って、
未熟なりにその時その時を必死に生きていたんだとは思う。

私の良いところを伸ばそうと惜しみなく
労力を注いでくれたことは感謝している。

それと同時に自分の都合で人間を増やした以上、
なすべきことを母はしてくれてたんだなという認識。

まあこんなこと言うと何かしら反発くらいそうだけど、私の中ではそう。(色んな事情でそれが出来なかったとしても大丈夫なように、セーフティネットを国が拡充しておけよとは常日頃思う)



でももっと早くに

大人って案外ろくでもなくて、
ずっとさみしさを抱えてて、とてつもなく弱い。
そして人間という存在についてよく知らない。

そういうことを白状しておいてほしかったな。

教えてもらったことはたくさんあるけれど、
生きづらさを抱えて克服してからは、
教えておいてほしかったことが山のようにあった。

「どうして教えてくれなかったんだ」と憤っていたこともあるけど、そもそも親だってそんな事知らなかったんだ。


親は所詮、自分より肉体を先に持った人間でしかなくて何も偉くはなかった。


人間はどんなに未熟であろうと、肉体的には親になれるんだなというのが母から学んだこと。


それを私は「肉の親」と捉えてる。

精神的に親であるかはまた別の話ということ。


母子関係であることを理由にしてそこに縛られたり、自分を明け渡して苦しんでいる人も世の中にはいるから不思議。


母親は所詮は肉の親でしかないと思ってたらいちいち相手したり、世話する義務もないと思うのだけど、簡単に割り切れない人が大多数なんだろうな。


誰かの娘息子たちである私たちには

「てめーの都合に合わせてこちとら生まれてきてやったんだから、それ以上に見返りとか求めんじゃねぇー!厚かましいな!この未熟者め!」

と、盛大に開き直る権利があると思う。

本来なら親はどこまでいっても子供には頭が上がらないはずじゃない?


それなのに世の中の親子は不思議なくらい上下関係に徹してることの多いこと。


親は履き違えないでいただきたい。
あなたの人生にわざわざ登場してくれたのは誰なのか。誰の都合で子供はそこに居てくれてるのか。

娘や息子たちも履き違えないでいただきたい。
誰かの人生に登場してあげるというビッグプロジェクトをやってのけて、それ以上に強いられる義務など本来ないということを。


こんな考え方をしてるので、母親とは仲は悪くなくてもムカついてる所はあるし、あまり興味も心配もない。


けれど母親という存在は、一番身近でミステリアスで、自分の人生に取り組む上ではラスボス的な存在でもある。


そんな想いの方が今は強くて、親と娘という関係の癒着を徐々に切り離してひとりの人間として捉えようとしているところ。

まだ始まったばかりだから、今のところ考えてることを吐き出して終わり。

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