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夢の癒しと導きは星からの伝言に続く~友の三回忌によせて2


さて前回は友の三回忌によせての
音声配信、そしてこちらの記事にも
寄り添っていただいてありがとうございました。
本当に感謝しております。

今日はその後のお話です。
よかったらおつきあいください。

前回の記事

その後に見た夢についてのお話が主になりますが
少しその前にその頃の状況と心情を聞いてください。

音声配信はこちらです (noteの記事は加筆があります)

新型コロナ禍による制限と葬儀

彼女が急逝したのは2020年6月
コロナ禍まっただなかです。 

他の同じ経験の方もたくさんいらっしゃると思いますが
葬儀は身内だけ
非常事態宣言などが出ていた頃ですから
当たり前なのですが。

でも、少なくとも私には経験がない
そんな異例の日々の中のことです。

最後のお顔や
じっと魂を感じながらしばらく側にいられるセレモニー、

葬儀までいかずとも、お別れが直接できるかどうか、
それができないままだと
本当に彼女が亡くなったのか
それさえ本当なのかよくわからない状態だな
とも思いました。

これは常々思っていることですが
葬儀や年忌法要は、
生きている人のためにあると考えています。
段階を追ってお別れを確認していく儀式。
年月を数えるというのも自分の中での儀式だなと思います

遺された者の気持ち・遺す側の気持ち

彼女が旅立ったことが
本当かどうかさえ曖昧に思えるなら
会えないけれど、どこかで生きている
と思うこともできるわけです。

でもそうなると、それはそれでまた
何か心が落ち着かない、それはそうですね。
ウソですから。

ですから、どう、自分の中に落とし込んだものか、と
すべて夢のような気がしたり、不思議な感覚ですごしました。

自分でも馬鹿だなあと思いつつ、
「急に仲が悪くなって、彼女が連絡をしてこなくなっただけだ」
なんてことにしてみようかと思ったりしたこともありました。
しかしこれは彼女のキャラクターではないので
無理だなあと笑ってしまいましたが。

でも、ちょっとだけ
嫌われたような気持ちになるのに
似ているのが遺された者でもあると思うのです。

語弊があることを承知でお話すれば
遺された者は悲しいです。
勿論、辛い闘病の後に旅立った相手には
さびしいけれど、本人が苦しみから解放されてよかった、
本当に頑張ったね、お疲れ様だったね、とも思います。

でも同時に、どこかしら自分が置いて行かれたような
捨てられたような、ちょっと恨みがましいような
そんな気持ちにもなると思うのです。

特に今回、私の場合は
子どもの頃から知っている相手ですから
そのまま子どものような気持ちで
「なんで私のことを置いて行ったのよ、
一緒に遊びに行こうって言ったのに、うそつき」
なんて極端に言えばそんな思いです。

勿論彼女のご主人なんて本当に私と同じ
私以上にそう思っていたかもしれないと思います。
もっと大人でそうは思わなかったかもしれませんけどね。
まあともかくいろんな思いがわきます。

でもこんな思いでちょっと旅立った人を
責めたくなるような気持ちも
あってよいと思います。

例えば少し話はそれますが
早い段階で親に先立たれた子どもは
おそらく素直に、どうして自分を置いて行ったのだろう
嫌われたのかな、捨てられたのかなと思っても
当たり前な気がしています。

それは真実ではないけれど、
でもそんな風に思っているということを
亡き人が悲しむから、そんなことではないのだからと
呑み込むのは、かえって遺された者も遺した者も
苦しいだけのような気がします。

なんでよ!と悔しい思いがあることを確認して
さんざんその気持ちを表に出して、
はっきりさせていれば、
次第に、相手のせいではなく、誰のせいでもなく、
抗えない自然の摂理があるのだと
いつしか自然に全部を受け入れて
許すことができるようになるのではないかと思います。

ただ、私の場合はそこまでの道をたどらず、
今回もやはり、夢に助けられました

夢の中で「またね」

これも当時のblogに書いたので、
そこからの抜粋です。
2020年7月おわりの日付です。

……
6月末に、友の死と夢についてを書きました。
心を寄せてくださった皆さんには、心からお礼申し上げます。
あれからまた少し日がたち、彼女の七七日・四十九日が訪れました。
そしてその翌朝、彼女の夢で目が覚めました。
夢の内容はこのようなものです。

私の家のドアから、彼女が出ていく。
扉を開けると向こうからは
お日様がきれいにさして、白く輝いている。

彼女は私の方をみて
「じゃあ、またね」と笑って手を挙げた。
いつも彼女が私の家から帰っていく時と同じように。

場面がかわり、見知らぬ一軒家の中にいる。
どうやらそこは、彼女の家族の家のようである。
お祖母様の家なのかもしれない。

実際の彼女のご両親よりも若い「親御さん」という人や
親戚のお姉さん、
近所の友だちや、私が知っている友人もいる。

彼女はずいぶんお転婆で、
そういえば、少し体が小さいような気がする。

途中で一つの映像をみせてもらう。
上映会がはじまる。

彼女の小さい頃からの人生を再現した映像で
家族みんなで撮影したそうだ。
リアルで素晴らしい作品だった。

彼女のご家族から
午前中にお招きいただいたようだったが、
午後にはこの家の荷物を全部出して
引っ越すことになっているそうだ。
私は随分、長居をしてしまったようだった。
時間がせまっている。

招かれた他の友人は、贈り物や気の利いた言葉を贈っている。
私は何も持ってきていないし、贈れるものもなく、
何も言えずにじっと見ている。

けれど、ふと、もう遠くにいってしまうのに、
何もできないまま、もう本当に会えなくなるのだと思ったとき、
私はわーんと声をあげて泣いた。
ほんの一瞬、叫んだような短いものだったけれど。
彼女の親戚のおねえさんが隣にきて、
よりそってくれた。

私は、そのあとは心穏やかに、
みんなや彼女を見送る気持ちでみていた。
すると、画面がフェードアウトするように
白一色になって目が覚めた。

というものでした

実は彼女が逝去してからずっと
夢の中に彼女が出てきていたような気がしていましたが、
目覚めると、覚えていない状態が続いていました。

覚えていないけれど、実は
無意識の中で、彼女が旅立った現実と
向き合っていたのかもしれません。

夢の働き

時々
「なくなった人が夢にも出てくれない、せめて夢で逢いたいのに」
という方がいらっしゃいますが、個人的には、
目覚めた時に、まだとても悲しい想いが強い間は、
目覚めたあとが一層つらくなるので、
なかなか夢には現れてはくれない
ような気がしています。

その意味で、この夢から覚めた時、
「やっと会えた、彼女との新しいおつきあいが始まる」
と思いました。

また、コロナ禍でずっと面会もできないままでしたから、
夢とはいえ彼女との最後の対面でしたし、
夢のはじまりに、扉越しに「またね」と言ってくれたことで
一区切りを与えてもらった気もします。

そう「またね」なんです。またね!!

そして、場面が変わってからの
彼女の家の引越しの展開については
連想が広がったり、思い当たる節があります。

私には、子どもの頃、転校の経験があります。
また、逆に転校していってしまった友もいます。
しばらくは幾度か手紙のやり取りをしたりはしていました。
でも今とは違い、メールもなければ、video通話もありません。
何となく新しい環境に慣れる中で疎遠になり、
もう今は連絡先もわからず、会う事も難しい友です。
何でもできるおとなになってからの出会いと別れとは、違います。
昭和の頃の話です。

でも、その頃に会えなくなった友を、
いまだに時々思い出したりします。
彼らとの経験が私を作ってくれた、
私の人格の一部分であることはまちがいない人たちであり、
今も彼らが健やかに暮らしていてくれることを願っています。

四十九日という一つの節目に、それを連想させる状況が表れ、
「彼女は逝ってしまったけれど、それは、こんな別れと変わらないのだ」
と自分を支えようとしているのかもしれないとも思いました。

或は、彼女は魂の家だった「身体」が病によって住みづらくなったため
新しい場所に移っていっただけ
かもしれません。
実際、彼女は身体は病気になりましたが、
心は病人ではなく、最後まで健康で
凛としていたと感じています。

そして私は「彼女が魂となって挨拶にきてくれた」
彼女はいつも近くにいるから、ちょっと寂しいけど
悲しむことではない、と、納得しようとしているのかもしれません。

また、夢の中の彼女は楽し気です。
彼女の人生の子どものころからの再現映像を見せてもらったりして
彼女は「わたしは人生に悔いがなかったよ」と言ってくれているようで
遺った者の、「ああしてあげればよかったかもしれない」とか
「何も力になってあげられなかった」というような気持ちを
少し軽くしてくれたようにも思えます。

そして、既に他界している彼女のお祖母様やご親戚に囲まれて、
「あっちにいってもこんな家族がいるから楽しいものよ」と
旅立つ途中の彼女はどんな気持ちだったかなと思う心配を
払拭してくれたような、そんな気もします。

ただ、いずれにしても、これは私の夢でしかなく、
私の無意識が紡いでくれた物語でしかありません。
どこからからメッセージとして届いたのか
自分が取りいったのか、ただの願望夢なのか、
それもはっきりさせることはできません。

でも何であれ、その物語の中に入りこみ、
感情的に、また、リアルに体感したような感覚にいより、
また少し心の整理ができて、前に進めた気がします。

また、夢に助けられたお話でした。

それから、この後、私は
「そうだ、彼女には会えなくなったけどいなくなったわけではないのだな」と、とても深い所まで、腑に落ちたのでした。
理由を説明はできませんが、間違いないと思えたのでした。

そしてこの夢から、
折角彼女が贈ってくれるメッセージを
もっとしっかり生かしていこうと
向き合うエネルギーが沸きました。
……
というものでした。

夢解きと星読みのプロだから

そこで私は、その後、
星読みに、このエネルギーを繋げました。

彼女は生前、言いました。
私の仕事について
私の書いたホロスコープや分厚い天文暦の本をみて
「おもしろいねでも よくこんなのがするすると頭に入ったね
そんな風に生まれていたのね」と。

そう、だから、彼女がどんな気持ちで旅立ったか
今感じていることを、主観でしかないと思わないためにも
星でも確認させてもらおう、
そしてこれを、この後の他の方へのセッションにも
生かさせてもらうね 
と思ったのです。

そして「星が教えてくれる亡くなった人からのメッセージ」
として、この時期に少し力をいれはじめました。

こうなると辛いはずの経験も力になりはじめています。
とはいっても、その次のこれについて書いた記事には
またひと月くらいかかっていて、8月21日書いておりました。

また今日も少し長くなりますので
これについてはまた次の回でお話したいと思います。

続きはこちら



今日も最後までおつきあいいただきありがとうございました。



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