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生きにくさは幼稚園時代で完結~わたしの愛の原点

愛の原点、何がおきて
生きにくさが幼稚園で完結したのか
きょうはわたしの個人的なお話です。
よかったらおつきあいください。

自家中毒

さて幼稚園児のわたし
この当時、横浜の端っこに暮らしていました
幼稚園の運動会やお遊戯会
とても楽しみ ワクワクしています

でも その前日… げーげー吐く

行事の度にそうかといえば
そうではなくて
遠足の時は元気
車酔いは激しめな体質だったけれど
薬だけ飲んで乗れば大丈夫
あとは楽しく遊ぶだけだから

でも何かをして見せる時
必ずと言っていいほど
前の日、又は当日の朝は病院へ

「自家中毒ですね」
いつもの飲み薬をもらう
甘いんだか気持ち悪いんだかよくわからない
ピンクだったか緑だったかの薄い色がついている液体
プラスチックのメモリ付きのボトル

自家中毒
それは 子どもの自律神経失調症
体の外からやってきたものではなくて
自分の体の中でできた物質による中毒症状なので
そう呼ばれるとか

おとなになって調べて知ったけれど
体内にケトン体が増加すると症状がでる

アセトン血性嘔吐症 と
今は呼ばれているらしい

肝臓の中の糖の貯蔵の問題らしく
血糖値が下がったりもするのだそうだ
そういえば耳たぶをパチンと切られて
血液検査をされたような記憶もある

興奮しすぎて交感神経が活発になって、
脂肪の代謝が盛んになりすぎて…
ということらしいけれど
まあ神経質な子どもに出やすいものらしい

運動が苦手なわけでも
人前で踊るのが嫌いなわけでもない
むしろはりきっている
その意味では興奮しすぎていたのかもしれない
でも、母が出来過ぎる人であることが大きいと
実はその時から当時から感じていた

直接 期待めいたことを言われるわけではない
でも「ちゃんとしてみせなくちゃ」
「完璧にやらないくちゃ」
「お母さんがこんな成績じゃ恥ずかしいわって思わないように
すごいわねっ、ていってくれるように」
多分、そんなことを思っていた幼稚園児

でも具合が悪くなって休むということはない
意地でも出る!と言い張る 幼稚園児

むしろ本当に出たいわけです
だから毎回薬を飲んでは 後から合流
出演を果たしているのです

呪縛と負けず嫌い

そんな風にすごして いよいよ年長さん 
最後のお遊戯会になりました

当然 またもや同じ状態

そんなに頑張る必要はない
誰もそんなことは言っていない
でも そうはいかない
ましてや 周囲の人の思惑が
言葉ではないレベルで察知してしまう子にとっては

しかも 先天的なのか 後天的なものかは不明だけど
ある程度 本人 わたしも負けず嫌い

どこからかのプレッシャーがかかっているから
げーげーしているということを
認めたくもないから
「やる気ではりきりすぎちゃうから具合が悪くなる」
と語る幼稚園児

余談ですが
書道をしていました
仲良しの女の子も同じ教室で

ある時
出品する用の作品を家で書いていた時
思う様に書けない自分が悔しくて
わたしは泣き出しました

横についてみていた母は
「なんて意欲がある子だろう」と思ったようで
それを他の人に語っているのを後で聞きました

たしかにわたしは
「彼女みたいに書けなくて悔しい」と
言葉にしましたし
出品で賞がつくので
「これでは負ける」と思ったのかもしれません

けれどそもそも彼女とは
書く字のタイプが違ったのですけど
だから同じように書く必要はなく
書道の先生はそれをわたしに伝えてくれました

でもここでも「一番にならなくちゃ」という
強迫観念に近いものがあったと思います

勿論、幼児の思い込み
でもだからこそ その世界が狭いから
思い込みは激しいのです

魔法がつかえるかもしれないと
本気でまだ思っているような
成長段階でのことですから

自分自身でも
「きっとなんでもできる子であるはず」だから
「それに見合わない自分ではいけない」
といつの間にか思っていたのでしょう

音声での配信はこちらから👇

妖精役と解けた呪縛

けれど年長さんになり
幼稚園最後のお遊戯会のことでした

勿論その前夜から 
また例のごとくげーげー吐いています
そして朝 いつもの病院につれていかれます

でもこの日は土曜日で
父が連れて行ってくれました
そしてその足でわたしを幼稚園に送り
そのままお遊戯会にでるという段取り

今回の役はその素敵な衣装
ドレスがきたくて
選んでもらってとても嬉しかった
どうしても絶対にやりたい椿の精

病院でそのまま薬をのんで
父の背におんぶされて

すこし速足で幼稚園に向かってくれる父でした

その時のその背中からみた景色は
今でもはっきり思い浮かべることができます

父は何もいわなかったし
もしかしたら鼻歌なんか歌っていたような
そんな雰囲気でした

もうすぐ幼稚園につくというその道で
まったく唐突に
「わたしは何もしなくてもいいんだな」
本当に大人のように思ったのです
この人は私が何をしてもしなくても
わたしがいるだけで嬉しいと思っていて
大切だと思ってくれるのだな
 と
はっきりと 背中にいながらいにして
感じたのでした

今思い出してもありがたくて
その想いの大きさがうれしくて
涙がでそうになりますけれど

その後の症状

そしてこの日から
この症状はぴたりと出なくなりました

この病気は年齢的なもので10歳ごろまでに
出なくなるとも言われます
だからタイミングもあったかもしれませんが
わたしはメンタルの問題だったと思っています

ただ一度だけその後
似た症状がでましたが
それは病気で死にそうになった時
入院していた 手術前のことでした

それは緊張でそうなるでしょと思うので
これは理由が別だと思います
ひとり洋館みたいな病院の個室で
おとなでも具合は悪くなるでしょうと思います

でもこの時に助けてくれているのは母です
幼稚園のことでは
母が悪者みたいに聞こえるかもしれませんが
そういうことばかりではなくて
この死にかけた時に
母はお百度参りをしてくれています

昭和の話、確かに既にかなり前の話ですが
それでも その時代でも
そんなことをする人はそう多くはないと思います

関西ではかなり有名なお寺で
お百度参りをしてくれて
それを病室にもち帰ってすぐに
無事手術ができる状態になるという
そんな出来事もありました

以前 
見える見えないとか不思議体験とか
そんなことに関する生きにくさはなかった

と話しましたが
こちらの方は、母のお陰なのです

これについては次回記します

愛情の原点であり基準

先の父との出来事に話をもどします

そんなことがありましたから
だから、なにもしなくてもいい
無条件の愛がある
幼稚園の時に 
心底 腑に落ちたわたしでした

勿論 ずっとこんな風に父から愛され続けていたかどうか
それはそうとは言い切れないかもしれません

親子関係も変わっていきます
ちゃんと確認したこともありません
でもこの一瞬の体感で充分だと
わたしは思うのです

そして父はありがたいことに
娘可愛い可愛いのべったりの父ではありませんでした
娘のご機嫌をうかがうような人でもないし
自分の趣味も大切にしている人です
でもそんなお陰で
距離感はちゃんと維持されていました

そしてこの時の体験は
私の愛情の原点であり
それがわたし中の愛の基準になったわけです

そうなるとそれに近いくらいの人や
同じ種類の愛を持っている人でないと
惹かれないし 安心感がもてない

だからこのおかげで
これも勿論わたしの中での基準ですが
わたしにとっては
素敵な人たちに出会えたわけです

人は受け取ったものや
持っている分は
人にも差し出せるといいますから
これだけ大きな愛をもらったから
わたしも少しは 愛するということを知って
真似事レベルだったとしても
そんな愛し方ができるかもしれない
出来ていたらいいなと 思うのです

そういうわけで
こんな出来事のお陰で
わたしは誰との比較でなくてわたしでいいんだな
と思った幼少期
自由でいられるようになりました

誰かのための何かになるという
条件付きの愛情や評価を求めて
何かエネルギーを使うことは減りました

ということで今日は
愛情の原点、そうそれは父というこたえでした
次回は見えない物不思議なことからの
生きにくさがなかった
母の方の話を記録したいと思います。

今日も最後までおつきあいいただきありがとうございました
またご感想や、皆さんのお愛情についてのお考えなど
などいただければ嬉しいです。

鶴岡八幡宮で七五三



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