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復活の関西弁〜言葉とアイデンティティ

先日 Standfmで
ネイティブアメリカンにまつわるあれこれ
というチャンネルでナバホのお話を聞かせてくれる
Ina Sin さん↓と

同じくStandfmで 「little linda のお昼寝」という
チャンネルの配信者の りんださんが
コラボライブをしていらっしゃいました。

Ina Sin さんはナバホの方と結婚なさって
アリゾナに暮らしていらっしゃいますが
その中で、ナバホ語が失われている現状を
心配していらっしゃいました。

それを聞きながら、
ナバホに限らず、日本でもそのようなことがあると
痛感していた私は、これに刺激をうけて
こんな配信をしました。

言葉を禁じられること

日本の近くでも
琉球王朝時代からつちかわれた文化や言葉が薄められたり、
特に戦中戦後は
沖縄の方言は意味が解らないからと
日本兵からスパイ疑惑を掛けられたり
罰せられたりしたそうです。
戦後も小学校で沖縄の言葉をしゃべると
標準語を話しなさいといわれ、
罰として「方言札」というものを首から下げさせられ
立たされたと、身近な所から聞いたことがあるので
そんなお話をしました。

そして失われた話やスケールは違うけれど
実は方言というのも同じではないかと思う
という配信でした。

そしてその次の配信では
まずはいただいたコメントのご紹介をいたしました。
同じような経験や想いがある方がいらっしゃって
とても嬉しく、さらにここからも思いが広がりました。

音声はこちら↓

関西弁禁止令

そしてこの配信、
後半は個人的なことをお話しました。

私は横浜出身ですが、小学校に入って間もなく
父の転勤に伴い、関西に引越すことになりした。
しかしまた関東に戻ったり、
或は、もっと違う土地にいくことになるかもしれなから
関西弁にならないように母からお達しを受けます。

実際、実はこの範囲に収まらず
実家の我が家はイランに一旦引越しがきまりかかる
ということもありました。

それこそこの時にいっていたら
また言語やアイデンティティがどうなったことだろうと
今思えば、ちょっと興味がありますが、
当時はほっとしました。

幸いといっていいのか、
イラン革命だったか、何かそんな国の情勢が落ち着かなくなったので
行かずに済むようになったと記憶しています。

この点で考えれば、国内の引越しなどそれほどのことではなく
帰国子女の方はもっといろいろ思うことがあるのだろうなと
お察しいたします。

方言バイリンガル

スケールが小さくてお恥ずかしくなりますけれど
私の場合も小さなバイリンガルです。

母から禁止されたとはいえ、
同じ言語を使うことを強要されるのも嫌ですが
違う言語の土地で標準語を通せと言われても
それはそれで難しいものです。

まして、その土地に対して何かしらの抵抗感があったり
遣いたくないなら、あえて馴染みませんが
友だちになりたいなとか、一緒に遊びたいと思っていると
やはり自然となじみます。

おそらく母も、「どうせこの子は関西弁を話すのだろうな」と
見越していたとは思います。
ただ、標準語を忘れないようにと、
家の中では遣わせないと言うつもりだった程度だとは思うのですけど。

そして私はすっかり関西弁になったのでした。

あえて関西弁といいますのは、私が暮らした土地は
梅田と三宮の真ん中くらいの桜の綺麗な所といえば
関西の方はお分かりになる方が多いか思います。

なので、大阪弁とも神戸とも違うとも思います。
やや言葉も薄れている地域かもしれないと思います。
ですから、単語そのものから違うほどではなくて
アクセントやイントネーションや語尾が関西弁という
それだけのもの多かったかもしれません。

ともあれ、学校では関西弁
家では標準語の
方言バイリンガルで育ったのでした。

内側にあった言葉

ちなみに関西以外の言葉としては、
母の親戚たちが長崎にいますので
長崎の言葉はわかります。

そして、現在福岡に住んでいますが、
引っ越してきてかなり年月も経つものの、
福岡弁の意味は解りますが、話せはしません。

状況として、周りに関西弁を話す人もいませんから
自然と標準語でずっと過ごしています。
それにあわせてか、家族も標準語です。

ところが、2年前のことでした。
実は関西弁がまだまだ深く
私の中にあったにのだと気付きました。

子ども時代の言葉

それは前に少しお話しました
2年前に長い付き合いの友だちが他界した時のことです。

自分の内面を整えるためだったのでしょう、
自然といくつかの物語がうかんできました。
それを自分ひとりでどんどん書いていきました。

そういうセラピーもありますが
いつのまにかそれを独りで完結させたのです。
お陰で内側も整いました。

ただ、ここで自分でもびっくりしたのです。

そのお話の中に3人の小学生がでてきました。
私の内側から生まれた物語の子どもたちです。

その子どもたちの話す言葉、
これがどうしても関西弁になるのです。

標準語に直して書く事はできなくはないのですが
そうすると、なんだか私の大事なその子たちではなくなるのです。
イキイキ元気に暴れてくれなくなります。
ちなみに周りの大人は標準語で大丈夫なのですけど。

そしてこの子どもたちにおそらく
わたしはとても癒されたのだと思います。

詳細は音声でよかったらきいてください

更にStandfmで

関西にはたびたび旅行をします。
その時には相手が関西弁だとなまります。

ただこっちではその環境がない、ずっとそうなのに
関西弁でしか話せない内側のこどもたち、
この発見は本当に驚きました。

そしてこの子たちがとても愛おしいのです。

そしてこの物語を書いた1年前に、
Standfmをはじめました。
そうしたら、普通に関西弁を話している方や対談形式の方もいて、
まるで電話や、近くの友だちの会話を耳にしているような…
TVや一般メディアからの物とは違う、とても身近な関西弁、
おかげで一気に関西弁が私の中にもどってきたのです。

これは多分海外にいる方が
Standfmでは普通の日本語というか
一般レベルの生活の空気が感じられる日本語が聞けて
嬉しいとか、話せるから楽しいと
おっしゃるのと似ていると思うのですよ。
(またまたスケールが小さくて申し訳ないですが。)

そして結果、私の中では
いわゆる心の声が関西弁になることが増えました。
アイデンティティが普段と少し違うとも感じました。

多分、より素直に子どもみたいになれて
楽しい気持ちになる言語、
それが自分の中の関西弁ということだろうなと思うのです。

そして、この心の声、本音が
関西弁になっていることが多いのはなぜかと考えた時、
理由がわかった気がしました。

それは関西弁の世界が
親からの初めての分離、自立の象徴だからではないか
ということです。

親からの自立と自分だけの世界の言葉

大げさだと思って笑われるかもしれませんが、
子どもからすれば結構な冒険です。

母はダメだと言っているのに、
こっそり自分だけの秘密を持つ、
自分の判断で独立した世界をもつために
自ら選択した言語だったからかなと
思い至るのでした。

しかも当時が子どもなので
今よりはさすがに無邪気なことが多かったのかなとも思います。

ですからその分、素直な想いやのびのびした
発想でつぶやかれる私の中から出てくる関西弁です。

今までずっと、横浜に戻っても、関西に戻っても
どちらも両方とも同じくらいに「ホーム」だと思っていたので
結構自分でも意外でした。

そしてもしかしたら
方言をもった人からすれば
その土地の言葉をしゃべった方がほっとすることもあれば
逆にそこから出たく出たくて仕方なかった人は
中央にでてきて標準語になった自分の方が心地よいという方も
いらっしゃるだろうなとも実感としてわかった気がしました。

そうか、そんな面白い発見が
こんな年になってできたのか、
そんなら、まあちょいちょいStandfmで
関西弁でしゃべってもええのんかなぁ
と、思ったりしました。

個人的なことや内面的なことを考える時は関西弁、
ビジネスとか実際的なことを考える時は標準語に
なっているような気もしますが、
二つの顏、当たり前にある公私の顏が
それぞれその言語が違うというなら
とても分かりやすいと思ったりもしたのでした。

そして関西弁でコラボライブ

さて、その日のことでした。
この配信を聞いてすぐに
先にご紹介したりんださん
早速にコメントとDMをくださいました。

そしてコラボライブで思いっきり
関西弁を話してください!と
神戸在住のりんださんが、
その場を作ってくれました。

その時の配信はこちらです。

心はよりリラックスして話せた気もいたします。
ただコラボライブと言う緊張はありましたね。

そして独りでつぶやく分にはいいですけど
公の場であることは、結構すっぴんで出ているような気分なので
多少ひかえめだったかもしれません。

けれど心はうきうき開放的で
はやり楽しかったのです。

コラボ後の感想はこちらから聞いてやってください。

なんだかとっても
一皮むけた気がしました。

お2人のnote

最後に
きっかけをつくってくれたIna Sinさんの
noteはこちら

りんださんの
noteはこちら

本当にありがとうございました。

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