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真面目という魔力

小さいころから「真面目」と言われてきた。

真面目なことは良いことだと思っていた。そして言われるたびに嬉しかった。
先生の言うことを聞いてくれる子は先生から好かれているから。
怒られることがないから。
褒められることが多いから。
真面目=善だと認識していたから。

そんな大人の都合で扱いやすい子供を、真面目と表現されていることに気づいたのは高校生のころだった。

部活動の指導者に何も考えていないことを指摘され、「真面目」に生きてきたつもりの自分は全てが否定された気がした。
自分の意思も決定も選択も誰かの勧めで作られてしまい、そして変わってしまうものだということ。それは「真面目」というプライドを持っていた自分にはあまりにも衝撃的なものだった。

流されやすく都合がよく、なんでも指示に従う、言われた通りにする、そんな特徴がない個を、真面目という言葉で括っている。
真面目=善では全くない。もはや真面目=損であるということ。

真面目と括られた自分は、そのポジティブな要素を持った言葉の魔力に、ずるずると引き込まれていた。真面目なことは悪いことではないが、決して善であるとは言い切れない。過言であるが、真面目は個性ではないとも思ってしまう。

真面目という言葉はポジティブがゆえに、他の良い個性までも含んで表現されてしまうだけではなく、その人を表す言葉として簡単に扱われてしまう。

真面目と言われることは屈辱だ。真面目と言われるくらいなら、不真面目と言われる自分の方が好きだ。

だから、自分に当てはめるわけじゃないけど、簡単に人を真面目な人だと片付けない、言わない。真面目について自分でも解釈できているわけじゃないし。

言葉は抽象的だ。無形であるがゆえに、無数の意味を持つ。
言葉の魔力、特に、真面目という魔力には引き込まれないようにしたい。


そういえば、、、
最近は反対にチャラいと言われることが増えたのはなぜだろう。
そういわれた時には、「意外と真面目だよ」と答えてしまう。(笑)

まったく言葉というものは難しいものだと思う。

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