おそれ――「怖れ」「恐れ」「畏れ」。
いまの自分にとって、どれがふさわしい漢字表記なのかわからないので、ひらがなにしておく。
”おそれ”を感じがちな自分。
クリエティブなものに触れるときは、いつもそう。
なににか?――たぶん「影響を受けること」に。
それと、出現している作品の裏話を知りたい気持ちと、知りたくない気持ちとがないまぜになることに。
あらためてそんなことを感じたのは、先日放送されたNHKのインタビュー番組「ここから」。
ミニチュア写真家であり見立て作家の田中達也氏が登場した。
氏が毎日SNSに投稿している「見立て作品」には、くすっと笑えたり、なるほどと感心したり、ほっこりさせられたり、覚えず唇の端がほころんだりする。
国内外で展覧会がよく開かれているが、わたしは函館で拝見したのが最初。
恥ずかしいことに、NHKの朝ドラ「ひよっこ」のオープニング映像の作品作家さんとは、それまで知らなかった――というより、朝ドラを見ていなかったので、そもそも結びついていなかったのだけれど、以来SNSをフォローするようになった。
クローズアップした形で見立てが生み出されているもの、遠目でながめたときに見立てが生み出されているもの……同じものであっても、その視点・距離感によって、見立てられるものが別になったりすることに深く納得させられる。
たとえば、
山=三角
三角のもの=サンドイッチまたはおにぎり
サンドイッチまたはおにぎり=山
ただ決してこの思考パターン一択などではなく、サンドイッチもおにぎりも、また別のものに見立てられることがある。
毎日毎日の作品のタイトルそれぞれの”粋(いき)”にも感心しきりだ。
英語と日本語、両方とも絶妙。
そんなデイリーの投稿を見ているので、あらためてご本人のインタビューを伺えることには、わくわくした興味が一番。
でも、なぜだか同時に”おそれ”を感じてしまった。
絶妙なセンスのある作品が生み出される、その発想プロセスを聞きかじってしまうことについて、なぜだかいつも「いいのかしら?」という怯えのようなものを覚えてしまうのである。
まったく遠く及ばない想像性と創造性の自分でありながら、なにがしかの「影響を受けること」をおそれるなど、矛盾している。
むしろ刺激を受けて、自分のちっぽけな独創性への肥料にさせてもらえばいいのに。
素直に、氏の涸れない創造の泉の恵みに与らせてもらえばいいのに。
そのまま自分の独自性を失うほど弱くもないはず――というかそもそも影響を受けるほどの素地もないかもしれないのに、自分の中の独創性が消えていく・消されていくことへのおそれが大きかったのだろうか。
ひょっとしたら、これもまた自分の小さなクリエイティビティへの謎の執着かもしれない。
あるいは、創作のプロセスを知るというのは、手品の種明かしを見聞きしてしまうことのようで、いくらかの後ろめたさ?楽しみを半減させてしまう?
憧れは憧れのままにしておきたい、というささやかな願望も混じっているかもしれない。
――が、しかし結局は、興味・関心、好奇心が勝った!
そして、とてもリラックスした、満ち足りた思いを得させていただいたのである。
そのインタビューの中で心に留まったのは二つのこと。
一つは「世界を作り上げる仕事」、もう一つは「見立てが代わりのものをみつける力」。
「ひよっこ」のときに作品を動かすCGはアニメーターの方のお仕事だったと話されていた。
全部自分でやらなくていい、自分はジオラマを作り世界を作り上げるのが仕事で、それを動かすのはアニメーターの方の仕事――というようなことだったと思う。
”世界を作り上げる”。
また、たとえ”ミニチュア”でなくても、「見立て」さえ抜けなければ自分自身が納得できることがわかった、ということばも印象的だった。
「見立て」の存在感……。
それが最後に語られていた最終目標への思いにつながるんだな、とあとで気づく。
実際、番組内で紹介された展覧会の作品の中には、ミニチュアだけではなく、等身大みたいな作品もあった。
ソフトクリームのクリーム部分をウェディングドレスに見立てたものが、ミニチュア作品にもなっていたけれども、大きいものも展示されていた。
そのものの現実の大きさにとらわれない、発想の楽しさもある。
そうして、見立ては「1つのことがダメでも、代わりのものを見つけられる力」、「似たものを見つける力」と解説されたことで、ああ、そうだよね、と共感する。
しなやかな生き方につながるのだ、「見立て」は。
”思考のありかた”。
「見立て」は想像力。
「見立て」が生む創造力。
「見立て」が広げる思考の幅。
最終目標は、「MITATE(みたて)」という日本語が全世界に定着すること、だそう。
英語でいうsimilarやlooks likeとは少し違っていて、「見立て」ということばでしか表せない概念がある、ということなんだ、と。
なるほど。
これはぜひそうなってほしい。KOBAN(交番)とかカワイイとかみたいに、唯一無二の単語に。
「見立て」は「見立て」。
――というわけで、結局のところすっきり、整理される思考のきっかけを受けられた25分だったのだ。
見終わってみれば、”おそれ”などどこにも残っておらず――なんだったのだ、あの出始めの感覚は、と笑ってしまう。
自分の影を警戒して飛びのく宮本武蔵のような”おそれ”だったのかしら?
いや、それこそおそれ多いたとえだし、違うな……。
ともあれ、これからもクリエイティブな人のお話を聞くときには、ちょっとした”おそれ”を覚えるのに違いない。
それでも、それを飲み込んで――新しいヒントと刺激を受けるチャンスにしていこう。
ちなみに、田中達也氏は毎日、見立て作品を掲載している。毎日毎日。
13年になるそうだ。
このことにも一つの後押しの力づけをもらった。
Facebook投稿を毎日しようと決めて続けてはいるけれど、投稿できなかったときが何日かあった。
そんなわけで、noteを始めるときには果たしてその目標をどうしようか逡巡し、まぁそこまで設定しなくていいかとハードルを下げていたけれど――この一か月くらいの間に、やっぱり毎日続けることに挑戦しようと思うようになった。
noteの創作のヒントもあらためて読んで、遅まきながら「続けること」を試してみている。
掘り起こし投稿もせっせとやらないと追いつかないし。
とにかく続けてみた先に、また何か新しい景色が見えてきたり、思いが生まれてきたりするかもしれない――と期待して。
ああ、こうしてみると、なんだかんだ言って、”おそれ”ている場合などではなかったね。
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