パスモを忘れて家を出てきてしまった。
いざ電車に乗る段になって初めて気づく。
切符を買って電車で遠出、というか最初から最後まで切符のみで乗車するのはひさしぶりだった。
ロマンスカーのチケットを買うときも、パスモを使うことが多い。
鉄印帳の旅ではもちろんICカードは使えないので、券売機や窓口で買うけれども、この場合は券売機の形態や購入プロセスもむしろ楽しみのひとつになる。
運賃を調べ、現金を入れてボタンを押す。
しかし、その行為自体は変わらないのに、いわゆる”普段使い”の電車――たとえば小田急や京王、東急や東京メトロなど――での、乗り降りのたびにあのちいさな切符購入あるいは精算ということに、変にもたついてしまった。
単に「ひさしぶり」ということ以上に戸惑いがあったような気もする。
いつもの場所に、いつもの気安さで行けないもどかしさだったのか。
ふだんはカードをかざして、あたりまえのようにピッ、ピピッという音を聞いているけど、いつも無意識に終わっているということでもある。
改札を抜ける瞬間、ディスプレイをちらりとたしかめたりはするけれど、乗車した区間の正しい運賃は把握していない。
残額、あるいはチャージされた瞬間をたしかめるとか、その程度だから。
たまに、母から小田急線の株主優待券のおすそ分けでもらった切符(路線内で料金関係なく使える磁気券)を使うことはあるけれど、それは路線内であれば気にせず使えるわけで。
そんなわけで、ほとんどの場合「運賃はいくらだったのか」を気にせず乗っているということに気づかされ驚く。
券売機で切符を買う、それもそれが「紙」であること、そして運賃がどれくらいの距離でいくらか、を意識するのも、鉄印帳の旅のように特別な場面でだけ。
そう、所要時間だって時刻表冊子など使わなくなって久しい。
「乗り換え案内」だの「駅探」だのを使って、パパパッ。
自分の心の貧しさはこういうところにもあるのかも、と思う。
無駄遣い気質。
つまり、便利なものを使っていても、たとえばそれで浮いた時間があったとして、その時間をうまく使えていないのではないか――トクしたことがあっても、そのぶんを有効活用しているわけではない、と。
一事が万事、そういうことに満ちているだろう自分の行動を思うと、きっといろいろと無駄にしているんだろう。
あとは、切符という小さな紙きれをポケットに入れておくことの心もとなさ――パスケースがないと、なくしてしまいやしないかという、心配を覚えたことに、ちょっと衝撃。
そんな心配を感じてしまう自分が少し寂しく思えた。
もちろん、鉄印帳の旅や優待券での移動時も、なくさないようにと気にはなっている。
が、そういうときはパスモの入ったパスケースがあるので、そこにはさんでおくとちょっと安心できる。
昔は切符だけで移動していたことがほとんどだったはずなのに――パスケースがないだけで、こんなに不安になる自分が情けない。
切符。
1枚のちいさな切符。
旅は好きなのに、いつのまにか寂しい貧しさをもったちいさな心の自分になっていることに、気づかせてもらった。
便利であることに安心して、なにかに気づくことを忘れてしまっていたり、便利自体を十分に活用しきれていなかったり。
パスモを忘れて向き合った、切符――1枚1枚のちいさな切符たちに、恥ずかしさを覚えつつも感謝しておこう。
ありがとう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?