2022年

2022年が終わろうとしている。2022年。どんな一年だった?自分自身をみてみても、日本をみてみても、世界をみてみても、怒涛の一年だったんじゃないかなあ〜。
では、自分に起こったことを振り返ってみる。
①子育てハードモード期に突入?!
 2021年11月に爆誕したムスコを育てている。誕生から1ヶ月間NICUに入院した彼は、退院後は大きなトラブルもなくすくすくと成長していった。ただ、5ヶ月ごろは妙に夜起きるようになり、ひどい時は30分に1回というスヌーズ機能を搭載したのだった。この時は本当に絶望の一言で、人は寝られないとこんなにも辛いのかと、夜はいつまで続くのかと、深夜の回らない頭で色々と考えたものだった。インターネットでネントレなるものの記事を片っ端から読み漁ったり、図書館で本を借りてきたり・・・。その記事や本に書いてあることを厳格に守らねば!と、躍起になっていたように思う。(今思えば永遠に寝ないわけじゃないんだからまあいつかは寝るっしょくらいの気持ちでドーンと構えておけばよかった)(まあそれができないから初めての育児なんだろうけど)そんな日々に疲れ果てていた私をあるアクシデントが襲う・・・
②新型コロナウイルスワクチンの副反応でまさかのテタニー!?
 そんな睡眠不足+「〜しなければいけない」の呪いに打ちひしがれていた私はあろうことか新型コロナワクチン3回目の接種に挑んだ。(体調が悪い時にはワクチンの接種を延期しましょう)しかもあろうことか交差接種。1回目、2回目とモデルナ製ワクチンを打っていたにも関わらずここにきてファイザー製ワクチンを打とうというのだ。(この頃は交差摂取の方がより強い抗体が獲得できるとメディアでも報じられていた)(後々知ったことだが、モデルナ製のワクチンの場合、三回目の接種では注入するワクチンの量が半量だったようだ・・・何かが変わっていたかは分かりませんが)接種後15分間の待機時間は特になんの変化も起きずに自宅に帰宅。ただ少し違和感を覚えたのは左の上瞼が「ピキッピキッ」と痙攣したことだった。瞼の痙攣なんて普段でも起こるのだが、なんとな〜く普段とは違う感じ?がして、記憶に残っている。夕ご飯はマクドナルドのハンバーガーを食べた。翌日から実家に帰省する予定だったので、ジャンクフードを腹一杯食べたかったのだ。さて、体調の変化が出出したのは夜。まずは接種した左腕上腕が痛み始めた。この副反応に関しては経験ずみ。今までの2回の接種でも同様に腕が痛くなったので「始まったな〜」くらいにしか思っていなかった。強いていうなら授乳時に腕が痛くてかなわんくらいの感想で、まあ、どうってことなかった。症状が悪化したのは夜中。ムスコの泣き声で起床するとまあとにかく体がだるい。必死の思いで授乳を終わらせるが悪寒がひどく眠ることができない。一階の救急箱から体温計を出し熱を計ると「38度」の文字。久しぶりの発熱。そして、とにかく寒かった。迷わず「カロナール」を飲む。発熱の原因ははっきりしているのでとにかく熱を下げようよ考えたわけだ。その後、再度眠りにつこうとするがとにかく倦怠感が酷すぎて眠れない。寝たんだか寝てないんだかわからないようなふわふわした感覚のまま、再び起床。時刻は5時半ごろだったと思う。ムスコが腹が減ったと泣いている。だがもうとにかく体がだるすぎる。夫を起こしてなんとか対応してもらう。この時の最大の違和感が手足の痺れである。なぜか両手足が痺れている。「熱があるからか?」とこの時は深く考えずにとにかく体を休めることに徹した。次に目が覚めたのは8:30ごろだったと思う。(正しくは「目が覚めた」という表現は間違っていて、正確には寝ることはできていなかったように思う。寝ようと努力したが、倦怠感がひどく、鼻詰まりもあって寝られたものではなかった。正しくは「目を開けた」である。)トボトボと階段をおり、夫とムスコが過ごしているリビングへ。とりあえず何か食べねばと前日「もしかしたら・・・」と買っておいたカップうどんを食べることに。無類のうどん好きの私。今までインフルエンザになった時でさえ残さなかったうどんをこの時は残した。残したのだ。今考えればこの異常事態を冷静に受け止められなかったことも、運命の悪戯なのか・・・笑
その後、実家に電話。なんと翌日から実家に帰省する予定でいたのだ。父母は「無理せんでいいよ」と言いながらも「熱があるなら孫くんの世話も大変だろうし帰ってきた方が人手があっていいんじゃないか」と提案してくれた。私も納得し、解熱剤を飲めば2時間くらいの車移動問題ないだろうと判断した。しかし、帰省途中の車内で悲劇は起こったのだった。最初は手足の痺れに違和感を感じつつも、「まあこんなこともあるかな」と楽観的に考えていた。しかし車の中で検索してしまったのだ。「コロナワクチン 副反応 手足の痺れ」そうすると出てきた文字は「ギランバレー症候群」という見たことも聞いたこともないような病名。なにやら厄介そう。その時感じた不安感が今後の展開に影響していたのかもしれない。あと20分くらいで実家に着くというところで容態が急変した。手足の痺れが一気にひどくなり、硬直し始めたのだ。「おかしいな」と感じてから5〜6分の出来事だったと思う。痺れと硬直は広がっていき最後には顔の筋肉も自由に動かせなくなった。(所謂手テタニーというやつ)呼吸はできていたが、普通じゃないと判断して運転していた夫に救急車を呼んでもらった。春の小雨が降る中、私は救急車に乗って病院へ運ばれたのだった。駆けつけてくれた母が一緒に救急車に乗ってくれた。終始意識ははっきりとしており、救急車の中では顔の筋肉の硬直もかなり緩和され、普通に話すことができるようになっていた。(むしろ興奮状態で話しまくっていた)救急車の中での検温では、解熱剤を飲んでいるにも関わらず39度近い高熱が出ていた。だるいわけだ。高熱があるせいで搬送先がなかなか見つからず救急隊の方々が何箇所か電話してくださり、やっと受け入れてくれる病院が見つかった。病院では、点滴を打ってもらい、血液検査を行った。とにかく熱が高かったので寒かったことを覚えている。少しずつ痺れがとれ、感覚が戻ってきた。2時間ほど病院で休ませてもらい、その後帰宅。解熱剤を処方された。頭の中には「なぜ?なぜ?なぜ?」の文字。考えても仕方のないことだが、「なぜ?」に取り憑かれていた。その後、痺れは順調になくなり、翌日には完全になくなっていた。熱も2〜3日後には完全に治り、体調も万全。父母にムスコを預け、近くの観光地に夫と出かけるくらい回復したのだった。これで全て終わっていたら「なんだったんだ〜」で片付いたのだが・・・
③その後のこと
簡潔に話すと、その後私は「うつ病」と診断され、2ヶ月間実家で療養することになった。自分ではコントロールできない「不安感」「緊張感」に襲われ、精神科に駆け込んだのだった。診断名は「うつ病」だった。死にたい、消えたいなどの感情は1ミリもなかったので驚いた。けれど、今の自分の状態が「普通じゃない」ことは誰よりも自分がよくわかっていたので「抗うつ剤」を処方してもらうことにした。「抗うつ剤」を飲むということは、断乳しなければいけいない。乳腺炎なども心配だったし、何よりムスコにとってよくないのでは・・・なんて考えたが選択の余地なし。当時の主治医が強く勧めてくれたことが本当にありがたかった。
結果、2ヶ月間の療養を経て、ムスコとともに家に帰ってくることができた。ついでに国家資格もとった。(療養しながら勉強したのである)(えらいのである)今回のことで感じたのは、「脳の故障は気持ちではどうにもできない」ということである。これに尽きる。今まで私はポジティブシンキングに自信があったし、不必要な不安(考えても仕方のないこと)に悩まされることもなかった。だが、今回感じた不安はそんな不安とは比べものにならないようなものだった。だってこの不安には「形」がないのである。「なにが不安かわからない」「なにに緊張しているのかわからない」そんな状況の中で一歩踏み外せば奈落の底に落ちてしまうような恐怖がそこにはあるのだ。本当に辛かった。とにかくムスコのことをしっかり守らねばと思っていたが、体と心がバラバラで、脳がヒートしてて、常にソワソワしていた。一番ひどい状態の時は話すこともできず、表情が消え、外にいなければ落ち着かなかった。(ベランダで過ごした)完全に脳が壊れていると思った。「メンタルクリニック」なんていう生やさしいところじゃなくて脳を診てもらわないといけないと思った。これから、さまざまな状況に置かれた人に会うと思う。そんな時には、常にこの感覚を忘れたくないと思った。世の中は、気持ちでどうにかなるなんて簡単に解決できることの方が少ないということ。「気の持ちようだよ」なんて恐ろしい言葉は絶対に使いたくないということ。一度壊れた脳を整えるには時間がかかるということも忘れたくない。
④2023年に臨むこと
来年は、とにかく「整える」一年にしたい。今年とは別物のハードさがあると思うけれど、体と心を「整えて」自分と家族を大切にできる1年間にする。以上!


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