見出し画像

Aftersun,

毒にも薬にもならないようなものを作りたい

AfterSun



先々週くらいにみた。AfterSun。

私は映画館で映画を見ることは年数回あるかないか、くらい。

ひとりで映画を観ることは好きだが、時間の使い方、特に休日のがどうにもうまくないので映画館に行こうと決心するまでが遅く、やっとチケットを買おうとウェブサイトを開いたら売り切れ、とか
14時頃からゆっくり向かってみた後にはお茶でもと思っていたのが17時15分からの回しかなかったり、
はたまたとっくに東京の上映は終わっていたり、とか。まあ、あまり映画館とは相性が良くないだろう、と思っていた。

というか、多分片想いだろうなと。私だけが映画館で映画を見ることが好きで、「彼ら」は無教養な私を冷ややかに受け入れるだろう、と。

この映画を勧められたのはたしか月曜日とか火曜日とかの平日の始めの方で、実際に行ったのは金曜日の夜だった。

最近映画や小説やレコードを嗜むシェアメイトが、気まぐれに私と彼を誘ったのだ。

「アフターサン行こうや「いいよ」」

文字にしたらこのくらいの字間で私は快く平日の仕事終わりに映画を見ることを承諾した。
金もないくせにどうして二つ返事で前情報が一つもない映画に行こうとしたのかはいまいちわからないが、おそらく何か週末の映画という漠然な期待があったのかもしれない。

私は結局、金曜日に渋谷で待ち合わせして、立て替えてくれた2000円をシェアメイトに払う、という情けない事実の羅列だけを予定帳に書き込んで、平日の仕事を乗り切ることを決めた。
自分でも後で驚いたのが、私は「映画に行く」という事実のみで大変満足してしまい、題名をインターネットで調べるなり、詳しくあらすじを友人に聞くなりといった行為を全くしなかった。私は映画館で映画を見にいくということを目的化していたので、それ以上の考えは必要がなかった。

映画を見る前の心構えとして予定帳に書き込むだけで十分すぎる余興だった。


20:50


 ここではしずかに流れる時間の美しさとおそろしさがありのままに描かれていた。早朝にカーテン越しにみえる朝の薄鼠色の空を想起させるオープニングとともに、私の意識は巧みな映像コントロールによって彼女の幼少期の記憶に入り込んだ。

大人になりたかった子どもと自己に沈んだままの父の対比が痛々しい。

きらきらと光るプール、夜の海、二人で潜ったエメラルドの水中、雲が見当たらないコバルトブルーの空、黒い夜に一人で塞ぎ込む父。様々な濃淡がついた「青」が映画の中に混在していて、一定のトーンで進む青が、様々な解釈と余韻を私たちに与えてくれた。

この映画の大部分を占めているのは彼女、ソフィーによる思い出とビデオカメラに遺された事実の断片であるが、より肝要な部分は数分にもみたない「今」の場面である。

こうした場面は物語の中で異質なものとして意図的に点在していて、私たち観客は彼女がいったい今どんな人間で、どんな日常を送っているのかを鮮明にしることができない。暗い空間に照らすフラッシュの無機質な白によってしか、情報が説明されない。

そのような美しい思い出と葛藤や苦しみが含まれたシーンのチグハグな印象は、どことなく私を不安にさせ、そのシーンに隠された意味を意識的にに探させる(ような力がある)。なにか解決の糸口が、理解できるようななにかがあるのではないかと、私は流れていく美しい映像の記憶に、緊張感を持ちながら目をこらして映画が終わるまで探し続けた。

自分から映画に関われたのは久しぶりで、私はさらに自身の記憶を手繰り寄せながら、この美しい映像の切れ端と、私の創造性をどうにか結びつけようと必死になった。

結局、この映画は素晴らしい教訓や近年の問題を私に先生のように説明してくれることはなかった。映画は私の承認欲求よりもすばらしい映像のかけらと美しい余韻を与えてくれた。


そして、今はこうして曲がりなりにも文章を綴っている。

Afetersunは私のクリエイティビティを批判し、
また包み込んでくれた作品だった。


この記事が参加している募集

#映画感想文

67,494件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?