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友だち以上、家族未満

ついにドラマ『着飾る恋には理由があって』が
終わってしまった。

最初はあくまでキュンキュン枠、
目の保養としてw
見ていたドラマだが、
結構おもしろかった。
確実にロスになる。

そんな最終回では、
とても印象に残った言葉がある。

離婚してしばらく経った熟年夫婦の会話。

夫はまた夫婦に戻りたかったけど、
妻はそれを断るんだ。

そうしたら夫はこう言う。

きっと誰かを必要になるから
友だち以上、家族未満でどう?

家族未満。
でも友だち以上。

とても素敵だ。

33年間という短いのか長いのか
わからない人生でわかったことの1つは

人間関係をカテゴライズするのは
とてもナンセンスであること。

この人は友だち
この人は知り合い。

友だちの中でも、
この子はただの友だちで
この子は親友。

家族だってそう。

血のつながりって
そこまで大事なんだろうか。

血がつながっていなくても
家族だと思える存在がいて

一方では血はつながっているけど
他人のような人もいる。

夫婦って血縁関係はないのに
家族ではあるし。

そう考えると本質的な
家族の定義ってなんだろう。

法律や戸籍上の形はあるけれど
それは不完全な人間社会の話であって
本質的ではない。

全然関係ない話だけど
わたしは、小学生の頃とか
自分の子どもは
自分が生まなくてもいいと 
本気で思っていた。

親を必要としている子どもたくさんいる
みたいな感じで、養子もいいなって。
そんなことを考えていた。

そして、今もその考え変わっていない。

自分が生んだことないから
言えることもかもしれないけど、

でも自分から生まれなかったとしても
自分の子どもと決めたら
きっと自分の子として愛せるという
根拠のない自信あるんだよね。

実際にそういう家族たくさんいるじゃん。

わたしの兄は、
わたしの父親と血つながってないけど
本当のお父さんみたいに慕っていた。
むしろ、血がつながっているわたし以上に。

それもあって、血縁って
そこまで重要じゃないというのが
わたしのデフォルトの考え方。

自分の親に対しても
同じようなことを思う。

親だから愛している
親だから好きという感覚が
よくわからない。

心から感謝しているし
仲もいいけど

人間として
好きかどうかはわからない。

親のこと好きじゃなくても
いいと思うんだよね。

冷たいのかな?

でも、これが本音中の本音だ。

とりあえず、まぁ、
その辺の考え方が
ものすごくフラットなんだ。

なんか、人をカテゴライズしちゃうと、
人を見る目が曇ってしまうような
表面的にしかみれない気がする。

いつのまにかその人自身ではなく
その肩書きを重要視している。

彼氏になったら、毎日連絡する
親友になったら、一緒に帰るとか
学生の時とか、そういうのあったよね。

あれが大嫌いだったw

いや、正解にいうと
彼氏がいなかったから
彼氏と毎日連絡するのは、
憧れていたw←

友だち関係が苦しかったなぁ。

高校2年の修学旅行前、
仲良しグループから脱退します!
という宣言をしたことがあってw
プチ事件になったw

今思えば、昔から
一緒に帰る、メールする、
一緒にトイレ行くとか、
プリクラ交換するなどなどなど、

そういう親友という
肩書きに付随してくるタスクが
心底苦手だったけど
そのことすっかり忘れていた。

(トイレぐらい1人で行ってほしいw)

でも、徐々に慣れるんだよな。
まぁ、いいっかみたいな。
合わせるほうが楽!みたいな。
“みんな”に合わせて生きていた。

でも、なんか違う。

今、自由になってみて
いろいろ考えたり
たまにモヤっとする中で
気づいたりする。

なんでモヤっとするの?って考えてみると、
よくわからないことで苦しんでいて、

それが本音のときもあれば
シンプルにこれまでの
ダサい思考の癖に
引っ張られていることもある。

縛られていることに気づいて
そこを手放すと楽になる。

その中で最近の気づきが
自分にとって、なるべく人を
カテゴライズしないことが
大切な価値観であったということだ。

これは仮説だけど
肩書きに縛られず
人として人と向き合うことで
その人の本当の姿がみえる。

そしてもっと、人と人の絆が
深くなっていくような気がする。

人として人をみる。

白黒じゃないグラデーションを
楽しめるようなそんな人になりたい。


映画でもドラマでも本も、
1つだけでも、心に残る言葉があると
それだけで見てよかったと思える。

だからやめられない。

今日はここでおしまい!

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