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「現代芸術わからない」問題と、オルテガの「芸術的感性」

 たとえば美術館の常設展に行くと、印象派・ポスト印象派までの展示には丹念に目を通していた人でも現代芸術になった途端足早に通り過ぎてしまったり、

「よくわからない」
「俺でも描ける」

 といった感想を作品に投げかける、言わばネガティブな反応を見せることは珍しくない。
 かく言う私が現代芸術の全てを理解できるほど優秀か? と言われれば必ずしもそうでもない。見ている数が比較的多く、”割と”面白がっている、というだけの話で、その全てを理解しているとは思えない。

 こういった「現代芸術わからない」問題というのは昔から、特に20世紀以降、芸術が目に見える対象から逸脱し、抽象的傾向を見せるようになった時代からは顕著にあるようで、スペインの哲学者オルテガは『芸術の脱人間化』(1925)という論考の中でこうした抽象化を「芸術の純粋化」と形容した。そして、そういった従来の芸術とは異なる芸術を「新芸術」と呼び、「芸術的感受性という特殊な能力を持つ人のみが知覚しうる」ものとした。

 この文章に触れたとき、(あくまで現代の目線ということにはなるが)タチが悪いのと思ったのが「芸術的感性」という言葉である。今で言う「センス」というところだろうか。オルテガはこの文章の中で、芸術的感性を持つ人間が社会的にも「選良」と呼ばれ、大衆と区別される… ともしていて、その構図は現代でもその「有無」ということで人の優劣を測る、言わばマウントを取る手法として「センス」という基準が用いられることがある。

 しかし、ここで問題になるのが、「芸術的感性(センス)」それ自体についてである。なんとなくだが、たしかにそういうものが存在していることは了承している。しかし、それが何なのか、基準と言うが、果たしてどういう基準なのか、それがいくら考えても判然としない。
 メートル法のような絶対的な指標があれば良いのだが、各々の個人、もしくは集団が持つ尺度はあまりにもバラバラである。さらに、それぞれがお手製の定規を持って、「お前の2cmは1cmだ!」「いや、お前の1cmは4cmだ!」「いやいやいや、俺の1cmこそ1cmだ!」などと言い争っているような状況は、傍目には不毛なものに見えてしまう。そしてどういうわけか、作品への評価として存在する「芸術的感性」の尺度は、その作品を需要する観客を測る尺度としても変容する。論争は更に攻撃的になり、言ってしまえば「ろくでもない」ことになってくる(例えば2019年のあいちトリエンナーレを巡る議論、政治的応酬)。

 …と、わざわざオルテガまで引っ張り出して、何が言いたいかというと、

「無理してわかろうとしなくていいんじゃない?」

 ということ。

 勘違いしないでほしいが、「全くわからなくても良い(むしろわかる必要なんてない)」というような、反知性主義的態度を奨励しているわけではない。わからないよりはわかったほうが良いには決まっている。
 ただ、そこに明確な尺度が無い以上、何をもって「わかる」とするかは実はかなり難しいと思う。芸術は定義の無い数学のようなもので、ある価値観からは素晴らしい作品に見えるものが、別の価値観からはとてつもなく陳腐だったり、理解不能に見えたりもする。その受容もまた多様性ということになるのだが、しかしオルテガが、そしてそれ以前の時代からなんとなく社会にあるだろう「理解できる→センス(芸術的感性)がある→優秀」という図式が「わからない」を抑圧し、余計な反発を生んでいるようにも感じる。
 神様でも無いかぎり、完全にわかり尽くすということはありえない。「わかっている」と思っている側も、本人たちが思っているほどわかってはいないものだと思う。それはどこかで「かのやうに」(©森鷗外)なものとして納得しているに過ぎない。むしろ、「かのやうに」を自覚していない、四捨五入でものごとを考えていることのほうがかえって危険ではないだろうか。

 少し話が大きくなりそうなので、美術鑑賞の実践に絞って話をすると、「今わからなかったとしても、次にわかれば良い」と思って、あまりエキサイトできない展示に出くわしたときは「次回以降の予習だな」と割り切ってしまうことにしている。それは開き直りでもあるし、「予習なんだから、わからなくてもしょうがないヨネ?」という、受け流しでもある。
 もちろん、現代芸術に限って言えば美術史的な文脈やアーティストのステートメントといったことにも理解があるとより楽しめる、ということはあるのだけど、それでもわからないということもある。ただ、それは観客である自分の無学無教養ばかりに帰するものでもなく、ひょっとしたら作品それ自体がマジでつまらないのかも知れないし、また作品に問題が無くても、それを展示する方法に問題があるのかも知れない。勉強すれば良い、というものでもなく、なまじ「教養」を身につけてしまったことでかえって純粋な目を失っている(ゆえに楽しめない)ということもある。

 そこを四捨五入して、一緒くたに「みんなが面白がっている芸術を理解できない自分がダメなんだ😞」と観客が思う必要は無いし、そういう観客の自責を促す芸術コミュニティはむしろ不健全だと思う。観客の立場としては、他人が、世間がどうじゃなくて、まず自分の物差しで納得できるかが第一で、十分にわかることができなくて「くやしいな」と思うなら食い下がるべきだし、そう思わないのなら「しょうがないな」ということで一旦距離を置く、それぐらいで良いと思う。芸術作品というのはふとしたタイミングで「再会」することもあって、次に会ったときに「なんだ、こういうことか」と急に納得できて、そこから楽しめるというようなこともあったりする。

 一口に現代芸術と言っても多種多彩なので一概に言えないし、唯一解というのは難しいところもあるけど、だからこそ観客としての自分の尺度というものが大切になってくるのかなと思う。ただ、それは冒頭のような作品への安直でネガティブな態度を一様に許容するということではなく、むしろ逆で、だいぶ一度作った尺度に固執するのでもなく、かといって他人に言われるがままに尺度をその都度作り直すのでもなく、あえて言うなら、自分の中にある尺度をより理想的なものに、謙虚に「育てていく」とでも形容すれば良いだろうか。

 芸術的感性にせよセンスにせよ、それは競い合わせるようなものではなく、もっと内的な価値観だと思う。逆説的ではあるけど、観客としての自分を磨くことこそが難しい芸術作品と「会話」するきっかけを掴む… ことができるのかも知れない。

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