「感想文」

 私の書く、美術鑑賞についてのそれは「感想文」と呼ぶことにしている。

 もともとは単に「文章」などと呼んでいて、それをコメントで「感想文」と言われたことがきっかけで、自らも「感想文」と呼ぶようになった。自分の書いているものが「評論」「批評」と呼ぶほどに高尚というか、芸術作品の多くに触れているとは思えないし、それが文学評論であろうと時事評論であろうと、それを名乗ることで「えっへん」とする感じがどうにも好きになれない。

 主に芸術を判断する「美学」という尺度は人が思う以上に曖昧で、年を追うごとに多様化もしている。しかし人はその「美学」という尺度で人に優劣をつけたがる。最近大学のレポートで取り扱ったオルテガの表現を借りれば「選良」と「大衆」、というように。言葉が難しくなってしまったが、たとえばある芸人の漫才を理解しないとお笑い通を称する人たちに「センスが無い」と見下されたりすることがあるが、あれだ。「美学」という言葉は、「センス」とも置き換えられる。

 しかし、基準となる「美学」が曖昧である以上、人はその価値判断において「選良」となることはほとんどできない。それは自分が「選良」だという幻影で、その実単に偉ぶった口調が鼻につく「大衆」にしかなれない。優れた評論があるとすれば、誰もが納得しうる、もしくは誰もが支持したくなる普遍的で魅力的な「美学」を提示することだが、多様化が当たり前の時代に、そんなことがやすやすとできるとは思えない。そしてそんなものに、「評論」「批評」などとつけるのはあまりにもおこがましい。

 そんなわけで自分の書いているものは「感想文」である。しかし、その作品のどこに自分が心を動かされたのか、なるべく言葉を尽くして説明したいと思うし、また人の意見についてもできるだけ受け止めたいと思う。私の考え方は「美学」の一つに収斂していく作業を否定しているとも言えるが、かといって、異なる意見を「人それぞれ」と言って突き放してしまうのは集団に生きるにしては、あまりにも寂しい。

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