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池上英洋「イタリア 24の都市の物語」光文社新書

 前回池上さんの本を読んだ流れもあり、もう一冊。

 もともとはNHKのイタリア語講座テキストに連載されていたもの。イタリア内にある各都市を取り扱うということもあって一つ一つの回が独立しており、だいぶ読みやすいです。

 個人的に興味を持ったのはまず「Vinci(ヴィンチ)」の回。レオナルド・ダ・ヴィンチの出身地ということもあり(ダ・ヴィンチを英訳すると「from Vinci」、つまり「ヴィンチ村出身の」という意味)、彼に関する話題が中心に紹介されております。
 公証人の息子であることはよく知られた話ですが、婚外子であるがゆえに公証人の仕事を継ぐことが禁じられており、決して恵まれている立場では無かったようです。さらにはラテン語やアバコ(日本で言うそろばん)などの基礎学習の機会を与えられず、左利きの矯正もされず… そういう境遇のもと、レオナルドは職人の道へと"やむを得ず"進むこととなります。後に芸術や自然科学など、広い分野に関心を持った彼としては意外にも映りますが、だからこそ基礎知識の欠如に苦しんだとのこと。

 本書ではさらに、両親がおらず、初孫を喜ぶ祖父母に育てられた家庭環境、さらには祖父が残した税控除申告書をもとに、実母の結婚を巡る持参金などにも言及しております。こういう話題はワイドショー的にも見えてしまうかもしれませんが、彼のような人物に起こりがちな「天才」という、一種の神話性を解くという点では、あながち無意味ではないかも。

 もう一つ興味を持ったのは「Venezia(ヴェネツィア)」の回。盛期ルネサンスの文化が花開いたことでも知られる場所ですが、ここではその中で活動した高級娼婦であるヴェロニカ・フランコ(フランカ)の紹介に紙幅を費やしております。

 地理的・政治的に独立性の高かったヴェネツィアはローマ・カトリックの宗教勢力から比較的影響を受けなかったこともあり、その結果として、売春業がかなり盛んに行われていたようです。ヴェロニカもまた医者との結婚に失敗した後、高い教養を持つ高級娼婦として上流社会との関わりを持っていくようになります。

  ヴェロニカは交流をもった文人たちから多くを学び、自らサロンを主宰するようになっていく。楽器を巧みに奏で、ウィットに富んだ会話で人々を楽しませ、その時の話題にあわせた詩を即興で詠った。彼女は特に、恋愛をテーマとする三行詩を得意とした。

本文より

 彼女の教養は相当だったようで、29歳の時には詩集、その5年後には書簡集まで出版しております。

 ただし、ヴェロニカ自身は高級娼婦・売春婦という職業については否定的だったようです。彼女自身、娼婦であることを理由に魔女裁判に何度もかけられていますし、娘をヴェロニカと同じ道を進ませようとした母親に対し、ヴェロニカはこんな手紙を残しています。

 世間はとても危険でうつろいやすく、か弱い母親たちの家など、飢えた若者たちの愛欲の罠の前では、少しも安全な場所ではないのです――。

書簡集より、著者訳

 また、娼婦がその仕事をずっと続けなくて良いように、また、娼婦の子供たちが同じ職業を継がないように(樋口一葉『たけくらべ』のような状況でしょうか)、彼女はヴェネツィアの政府当局に請願を出しております。彼女の請願自体は聞き入れられなかったようですが、1580年にはヴェネツィアに娼婦のための救護院が誕生しており、彼女の願った社会改革はなにはともあれ、一つの実を結ぶこととなりました。

 この本で描かれる彼女の人物像が非常に面白く、さしあたりWikipediaの記事を読んでしまいました。彼女自身も高級娼婦の娘であり、芸術などの教養を母から叩き込まれていたこと、医師との離婚後、やむを得ず自らも高級娼婦となったこと、上述した出版で得た利益を慈善団体設立のために使用していたこと、しかし魔女裁判を通じて財産や支援者を失ってしまったこと…
 おそらく自らが経験したであろう出自を巡る不幸・苦労を繰り返さぬようある時は他人に、ある時は社会に働きかけた彼女の人物像はとても魅力的です。


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