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読書感想文: 遠藤周作『十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。』

以前Twitterでバズっていたのを買ったまま積ん読になっていたのをようやく読んだ。

一言で言えば、人にまごころを持って接する普遍的な方法について、よく喋る爺さんが茶飲み話がてらしてくれているような本であった。私はこういった本が好きで好きで仕方ないのだが、それはさておき。

序盤は、いかに筆まめであることが大事であるかというお題目から始まるが、全体的には「手紙を書く時は○○○の○になって」(文中よりママ引用、この本を読まれるであろう各位のために○は明かさずにおく) という普遍的なテーマについて述べている。このテーマについて手を変え品を変え、さてラブレターではどうなるか(ちなみに、本書ではラブレターの書き方の指南が体感8割ほどである)、その断り方はどのようにしたらよいか、またはツイッターで抜粋されていたとおり、病床にある友人にはどうか、あるいはお悔やみにはどうか、など、様々な具体例が交えて述べられている。

本書を通じて述べられている普遍的なテーマ「○○○の○になって」は今でも充分に通ずるものであるが、一方で具体例はむしろ咀嚼が大変であった。著者の時代には合点いくものであったのかもしれないが、現代となっては旅行先から葉書で挨拶するなど、よほどの好事家でもないと行わない物だと私は思っており(観光地では今でも必ずといってよいほどポストカードが売られているが、あれは廃れないものなのだろうか)、著者の言いたいところを得るには当時の時代背景を想像して読むことが必要であろう。

つまり、具体例に振り回されるよりも、抽象化されたイメージを持つこと、現代ではどのような関係性におけるどのようなコミュニケーションにあたるかを考えながら読むことが重要である。


ところで本書は、第一講から始まる講義でセクション分けされているが、途中で「休憩」と題したセクションがある。ところが休憩など大嘘もいいところで、私にとって最も学びのあったセクションであった。

このセクションでは、あるゲームによって表現力を鍛える方法について記述されている。ゲームのルールは特に難しいことはなく、ただ単に今見ている物事を「○○のような」という形容詞を持って説明する、というものである。ただし、以下の二つの条件を満たさなければならず、これらのルールを持って著者は「そう容易しくはありませんぞ」と我々を窘めている。

(一)普通、誰にも使われている慣用句は使用せず
(二)しかもその名詞にピタリとくるような言葉を

これらの条件によってこのゲームは非常に難しくなっており、たとえば夕暮れ時に橙に輝く太陽を指して「燃える火の玉のように」と称するのはベタ中のベタでルール(二)に反するものであり、著者曰く「手アカでよごれた表現」とのことである。

私はこの本を読みながら、白ごはん.comのレシピに従って鶏そぼろを炒めていたので、必然的に目の前には香ばしい香りを立て茶色く輝く鶏そぼろがあった。これを何かに例えようと頭を捻りに捻ったものの、「ひきわり納豆のような」であったり、「豚まんの中身のような」と、全く食欲をそそるものではなくなってしまった。

もちろんこれは私の語彙の問題であり、そぼろはすぐに白米に乗せて二、三杯はかきこみたくなる出来であったが、とにかく自分の語彙の悲惨さが身にしみてわかる結果だった。

そういうわけで私は、この悲惨な語彙をなんとかするために、「○○○のような」ゲームをしばらくやってみようと思う。

出来立てで香ばしく湯気を立てる、ひきわり納豆のような鶏そぼろを食べながら。

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