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私小説 出口のない家

 あるイメージがわたしの中にある。それは家だ。その家は日本中にある。その家にはサービスを受ける者とサービスを提供する者がともに暮らしている。一見、両者は異なるもののように見えるが、共通点がある。ともに家の外に広がる社会では生きることが難しかった者たちだという点だ。
 その家には入り口はある。大きな入り口で、誰でも入ることができる。しかし、出口はない。自分が暮らし始めた家が嫌になれば別の家に移る。その家々に出口はないが、全て通路でつながっていて、外に出ることなく、別の家に移ることができる。たいていの者が家を移る。家から家に移り、そんなことを繰り返しているうちに、自分が本当はどこにいるのかもわからなくなっていく。家から出たいと思うが、いくつもの家を渡り歩いているうちに、家の外にあるはずの広い世界に戻ることが恐ろしくもなる。外の世界でうまくいかなかったから、家にやってきたのだ。自分が外の世界で、どんな目にあわされたのか、あるいはどんな失敗をしたのか、生々しく記憶に残っている。
 ではその家が、居心地がいいかといえば決してそんなことはない。歪んだ人間関係が入り乱れている場所だ。誰かが誰かを憎み、誰かが誰かと言い争い、昨日の敵は今日の友になり今日の友は明日の敵になる。それは何もサービスを提供する側のことだけではない。サービスの提供を受ける側にも凄まじい人間関係がある。
 と、まあこんなふうに、わたしの福祉に関するイメージは際限もなく広がっていく。
 障害者といわれる人たちはどんな人たちだろう。答え。普通の人です。だから人間関係のあらゆる負の側面がそこにはある。障害者同士のいじめももちろんある。そして、そのいじめは残酷でもある。排便処理がうまくできない障害者がいる。いわゆる健常者の脳は、自分の体の各部位、手であるとか足であるとか、そういった場所の位置に迷うことはない。だが、障害者ではそれができない人が多数いる。すると排便後の処理、お尻を拭くという行為がうまくできないのである。ウォシュレットがあるだろうというのは論外だ。そんなハイカラなものをうまく使える障害者は、それほど多くない。まして入所施設となればなおさらだ。
 彼らは排便後の処理がうまくできない。すると、入浴の際、便が、彼の使った風呂椅子につくことがある。それを見て、嘲笑う障害者がいる。皆の前で、汚い奴だと罵り、嘲るのである。
 障害者間のいじめは、歴然とした能力差がある場合、残酷で救いのないものになる。自分より明らかに能力が劣る障害者に対して、恐喝まがいのことをする障害者も実際にいるのだ。
 障害者だからそうなのではない。人間というのは、そういう救いのない生きものなのだ。わたしが福祉の世界にきてわかったことは、この世に美しいものなどないということだ。
 職員間のこじれた人間関係は、もちろんさらに救いがない。腐臭を放つ人間関係の中で、誰もがもがいている。嘘ではない。来てみればわかる。
 福祉関係者がことさら美しい話をするとき、それは金メッキをした糞のようなものだと思ったらいい。
 もちろん、これは小説である。

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