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私小説 わたしの体験 8

 しかし、虐待というのは、わたしたちの問題を相手にぶつけているだけだという気がする。というかそれ以外にない。すべて、わたしたちの問題というのは、何も障害に対する知識が不十分であるとか、理解がないとか、自分たちの使命がわかっていないということではない。わたしたちが抱えているあらゆる問題だ。それぞれの問題は、独立して存在しているわけではない。それぞれが有機的に絡み合っている。従って、ひとつを解決すればすべてがうまくいく、などということは金輪際ありえない。
 あくまでもわたしの印象だが、問題がおきたとき、人は自分より弱い者を攻める傾向がある。痴漢被害者に向かって、そんな恰好をして歩くあなたが悪いという声は今でも聴く。それから、性被害者に対して、あなたにも隙があったんでしょうという声もよく聴く。悪いのは被害者ではなく、加害者に決まっているのに、なぜか被害にあった方が責められる。SNSにおける弱者叩きも同じ構造だ。人は本能的に、弱い者いじめをしたい生き物なのだ。
 虐待が起きる。経営層は職員の障害に対する無知を攻め、管理者はもっとまともな職員を揃えられない採用に問題があると言い、一般職員はそもそも我々では支援できない利用者を押し付けた上が悪いという。
 誰も、自分たちの問題に向き合おうとしていない。
 わたしもそのなかのひとりだ。こうやって、小説を書いていると、意外に自分のことも突き放してみることができる。だが、その場にいれば、わたしも誰かを攻めている。正直に言えば、利用者を攻めることもある。
 それぞれに言い分があることは、わかりすぎるほどわかっている。もう十年もこの仕事に携わっているのだ。問題は、それぞれの立場で、自分が向き合っている問題が全てだと考えがちなことだ。そして、より大きな声を持つ者の発言が、全てに優先する。
 わたしたちが抱えるあらゆる問題ということは、あらゆる問題だ。支援上の問題だけではない。労務管理、給料、人事、職場の人間関係、ハラスメントに性懲りもなく繰り返される不倫問題等々。有機的に絡み合うあらゆる問題のストレスが、障害者もしくは老人に対する虐待という形になって噴出するとわたしは考える。
 世の中には、多くの障害者施設がある。介護施設もある。それぞれ問題を抱えている。問題は、施設の数だけある。よその施設で成功した取り組みが、必ずしもわたしが働く施設で成功するとは限らない。参考にはなるかもしれない。しかし解決策は、自分たちで考えるしかない。それは容易なことではない。
 正直に言ってしまうと、福祉関係者に虐待問題の解決を期待することは無理だと思っている。問題の当事者としての適格性に大いに欠けるというのがわたしの偽らざる印象である。
 不倫でしくじったわたしなんかに言われたくないだろう。たしかに目くそが鼻くそを笑っているようなものだ。それでもわたしは、自分が虐待問題の当事者として、解決能力が無いことを理解している。果たして、わたしの所属する組織のトップに、その自覚はあるのだろうか。

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