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私小説 虐待と愛護の間

 この私小説を書きはじめたとき、私小説である以上、わたしのことを小説に書いてやれという思惑があった。今もそうだ。とはいえ、わたしが体験したことを、まんまかけるはずもない。そんなことをすればえらいことになる。常識外れのわたしでも、そのくらいのことはわかる。多分、わかっている。
 だから、小説の形で書くことにした。自分の体験を書くわけだから、『私小説 わたしの体験』というタイトルをつけた。
『わたしの体験』
 読みようによっては意味深なタイトルだが、とりあえず書きはじめた。なんだかんだで8まで書いた。体験を書いているのだから、ネタが尽きることはないが、タイトルを固定して1から順に数えていくとどんどん数は増えていくことになる。そのうち数えるのが面倒というか、混乱してきてわからなくなるかもしれないという危惧もあるので、ここでタイトルを変えることにした。
 内容は変わらない、というかそもそも定まった内容があるわけでもない。まあいいかといういい加減な気分で、タイトルを変えて、今回は『私小説 虐待と愛護の間』とした。どこかからパクってきたようなタイトルだが、今回は虐待と愛護の間である。
 愛護というのはもしかしたら聞きなれない言葉かもしれない。これは虐待の対義語である。
 虐待という言葉はよく聞く。しかし、愛護という言葉はあまり聞かないかもしれない。意味は、かわいがって庇い護る、ということだ。障害者施設において愛護というのはあまり見たことがない。どこかにあるのかもしれないが、わたしの周りにはない。しかし、言葉があるのなら、この世界には間違いなく、愛護があるはずだ。
 では、愛護とまではいかなくても、普通の支援が、どの段階から虐待になるのか。あるいは虐待の手前にある不適切支援という状態に入って行くのか。明確に答えられる人はいないのではないか。
 虐待と支援の境界線は、実はかなり曖昧だ。
 前にも書いたが、絶対にだめはある。例えば暴力をふるう。これはだめ。鍵のかかる部屋に閉じ込める。これもだめ。
 では、忙しいときに声を掛けられて、
「ちょっと待って」
 と、いうのはどうか。障害者施設に限らず、介護の現場でもこれはわりとあることだと思う。これは良いのか悪いのか。
 こんなものはクイズにもならない。この業界の人にとっては当たり前すぎる話。わからなくても、ちょっと調べればわかることである。
 許容される支援と虐待と呼ばれる支援の間、敢えて言えば灰色の領域はかなり広い。
「このくらいは大丈夫かな」
 そう思いながら、誰もが知らない間に虐待の階段を上っていく。そして、ある日、ふと越えてはならない一線を越える。
 わたしにはそういうイメージがある。前にわたしがいた施設の職員会議で、虐待問題を話し合っているとき、次のような発言をした職員がいた。
「じゃあ、どこからが虐待なんですか。それを教えてください」
 聞いていて、嫌な気がした。
 つまりその職員は、これ以上やれば虐待というラインがどこかに引いてあって、その手前までは行こう。そう考えているように、わたしには感じられたのだ。利用者にとって、権利を侵害されることであっても、少なくとも虐待認定されないのなら、そこまでは行ってもいい。
 そう考えることが、すでに虐待に片足を突っ込んでいる。わたしにはそう思える。

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