どなたか親切な方へ

電車に乗っている。都心の電車に揺られていると、過去に乗ったローカルな電車には、最近全く乗っていないと気付く。時間が、今では足りない自分がいる。過去の私と今の私、1日の時間は同じはずなのに、何かに縛られている。お金などではない。もっと、形に表されない、人と人との繋がりなどに生じる見えない鎖のような存在だ。

かつては、時間は無限にあるような錯覚を起こしていた。学ぶ時を経ても、学べていない自分が、時間に揉まれている。ゆるい方に流れる自分がいる。毎日、自堕落な自分とそれを正したい自分の葛藤に、時を使う。行動より考え込む。ああ、なんたる不甲斐ない自分。そんな中で毎日を過ごしていることが多い。

時が経つうち、年齢を重ね、今まで生きたより、これから死に向かう方が短くなっているなと気付く。これは揺るぎないし、抗えない。確実に時は流れているのだ。明日、突破ならない事故で他界する可能性だって拭えないのだから。

とすると、のんびりと、電車に揺られている自分を想像できなくなる。その何もしないで時間を貪っているのに、その時間が惜しいと悲鳴をあげながら、日々時間が経過している。

飛行機や新幹線は、移動時間の短縮という意味では優れた乗り物だ。新幹線の電源をいただきながら仕事もできる昨今、移動時間を使って一仕事できてしまう事もある訳で、乗車側のニーズに対応した進化は世界に誇れることだと思う。

がしかし、時間をかけてのんびり行く旅を何年もしていない。これをご褒美という名目の上で、どうすべきかなどと考えたりもするのだ。人間とはなんと傲慢な生き物だろうか。

かつて、長野の妻籠や馬籠に電車で行ったことがあった。電車の横は谷になっており、川が流れている。木曽川だ。木曽路や中山道はなんだか懐かしさに包まれるような風情があり、旅をしていると実感できる場所の1つだ。それは、今自分の置かれている街並みとかけ離れた情景が、そうさせているのだとは思うが、それだけではない懐かしさがある。

馬籠妻籠と歩き倒して、痛む足を休ませる小さな宿も良い。あの時の電車の情景は今も鮮明に覚えている。電車から流れる浦島太郎伝説も、木曽路ならではの話なのだろう。

当時の私は、時間をふんだんに使えた、いわば時間長者だったのかもしれない。


ああ、もう乗り換えの駅に着いてしまった。乗り換えて、駅近の自転車置き場まで歩いて、自宅に戻る。少し立ち漕ぎして慌てたりしてね。

慌ただしくて、時を奪われた輩でしかない。


どなたか、親切な方。私の時間を知りませんか?どうも大量に、過去に落としてきてしまったらしいのです。見つけた方は、ご一報下さい。

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