いずれ春永に
借りたままの本が何冊か本棚に入っている。どれも最近借りた物ではなく、10年から20年は経っている。
『いずれ春永(はるなが)に』ということばがある。
能か狂言で使われる言葉で『再び春が巡ってくるように、いつかまたお会い出来ることを願っています』という様な意味。ずっと以前、三島由紀夫の随筆で読んだ。
再会を無理強いしていない、でも十分にこころが伝わるような良いことばだなとずっと覚えていた。そんなふうに言いたかった場面があったのだけれど、その頃の私には似合わなかったから言えなかった。
「恋愛の別れ」ではない、大切な友人との別れ。
再び会えない感じが漂っていて、でもそれについて話すのさえ、お互い辛いような状況だった。ただ「元気で」と別れたけれど、元気じゃないのは明らかで。気の利いたことが言えなかったのを悔やんだりした。
その後しばらくして小包が届いた。中には本が一冊入っていた。私が読みたいと言っていて、結局まだ借りないでいた本だった。
良くない予感がして慌てて電話すると「それ、貸しておくから。いつか、返してね」そう言われた。「あげるんじゃないから。ずっと貸しておくから、郵送したりしないように」と。
あれから20年以上経つけれど、まだ返していない。たぶん、もう死ぬまで借りていると思う。彼女とは年に一度ほど会うのだけれど、その度に、つい昨日も会っていたように莫迦な話をして笑ったりする。
自分が本を単に読み物とか娯楽としてではなく、何かもっと大切な友のように思っているので、本を貸して貰うのは、ただ読みたいものを読めるからという以上にうれしい。
信頼されているというか、その人自身の思いや何かを分かち合いたいと思ってくれているのだと感じるし、何かの別れの際に差し出される本は、自然な再会を願う「ことば」のように感じるから。
本棚に入ったままの、あとの五冊について。
一冊の持ち主は、やはり大切な友人であり恩人。会うのは数年に一度ほどだけれど、時折メールをする。本のことは話題に出したことはないけど、もし言ったとしても「まだ借りていていいですよ」と言うのだと思う。
残りの四冊のうち三冊の持ち主には、もうずっと会っていない。価値観も行く道も変わってしまって、遠くなってしまった友人。
返すためにだけ訪ねるのもどうかと思うし、かといって今更送りつけるのも変だし。すでに結婚している彼の元にも、私の本が二冊ある。
私が変わってきたように、彼自身にも既に必要のない本なのかもしれないと感じる。貸したままの本は、私にとってそうなのだ。当時は自分にとって宝物のような本だったけど。
最後の一冊は分厚い本で、持ち主の名前と日付が裏表紙に記してある。そのひと自身が長い間使っていた本を私に貸してくれた。その日、大切に抱きかかえて帰ったことを覚えてる。
それから一年後のクリスマス「あの本はあなたにあげる。クリスマスプレゼント」そう言ってくれた。大事な本なのは知っていたし高価でもあった。だから「頂けません、ずっと借りていたい」そう言ってみたけれど、ほんの少しだけ表情が曇ったのを見て「…ありがとう、大切にします」と受け取った。
お礼に送った手紙に、本をずっと借りていたいと言った理由を書いた。ずっと貸しておくから、と言った友人のことも。
次の年の春、遠くの街に移ることになったそのひとを見送る日、渡した手紙は「いずれ春永に」と結んだ。