見出し画像

ひとをかたち作る物語のはなし


子どもが生まれた時、驚いたのは、その「つくり」の精巧さだった。

極小サイズの指先にある爪のひとつひとつや、目の周りを囲んだまつげの1本1本をはじめ、どれもが完璧だったこと。

これから徐々に完成していく、というような曖昧さがなく、すでに「ちいさなひと」が出来上がっている。その存在感といったらなかった。

子どもというのは、後天的な要素で形作られていくものだと思っていた。だから、少なからず心配でもあった。自分という人間に全く自信のない私が、もう一人の人間を作っていけるのかと。

しかし生まれてみると、爪やまつげだけの話ではなく、子どもはその時点で存在として完璧だった。


生まれ持った何か

まだ話すことも食べることもできない「ちいさなひと」は、明らかにその子特有の何かを、前もって備えて生まれてきていると感じた。もちろん、後天的な環境は大きく影響するにしても、感性や好みなどは、幼いながらもそれぞれが独特のものを持っている。

誰かの影響を受ける前から、それをあらかじめ持っている、育てていく中でそのことを確信せずにいられなかった。

そして、それは他の子どもたちにとっても、私自身にとっても当てはまることなのだ。

後天的な環境は、善いものを多く与えてもくれるけれど、時に本来持っていたものも、忘れさせてしまうのかもしれない。それで大人は「自分探し」など始めてしまうのだろう。

「あらかじめ持っていたもの」を与えたのは遺伝なのか偶然なのか、はたまた神なのか。一体どこからきているものなのかは、私にはよくわからない。でもそれはたぶん「自分」にとって大切なもので、良く生かすことができるはずの何かなのだと思う。

私はそのように「あらかじめ持っていたもの」を忘れている大人な上に、いろいろと過酷な環境に居たことで、自分自身を全く見失いつつあったから、あちこちに置いてきて忘れてしまった自分を、回収して形作るようなことをしていた。


物語が象徴するもの

そのひとつとしてヒントになったのは、子どもの頃に好んで読んだ物語だった。きっかけになったのはこの本を読んだこと。


この中で著者は、「自分が好きだった物語には、自分自身が投影されている」として、改めて読み返した子どもの頃に好きだった物語(著者の場合は「キャンディ・キャンディ」「長靴下のピッピ」「アルプスの少女ハイジ」)に自分の半生を見ているようで驚いた、と書いている。

「ピッピ」以外のふたつはいずれも、犠牲的な主人公が過酷な環境で頑張る物語で、「頑張らなければいけない」という著者自身のそれまでの生き方も、周りに居た人々の容姿や性格、関係性も、改めて見ると物語に酷似しているという。

自分の生き方の癖や思い込みを見つけた著者は、三つの物語の中で唯一タイプの異なる「長靴下のピッピ」の主人公、無邪気で明るいピッピをお手本にしていこう、と結んでいる。

たぶんこの著者と私が同年代なのか、私も同じようにこの「犠牲的な主人公」が頑張る、二つの物語を好んでいた。(その上「フランダースの犬」もこれに加わる)

当時、この二つはとても人気で、多くの子どもが見ていたと思うし、見ていたすべての子が強く影響を受けたわけではないだろうけれど、性格や育ちやその他の理由で、色濃い影響を受けた子はいると思われ、私もそのひとりだ。

育ちの過程で子どもが影響を受けるのは家庭環境だけではなく、世間的な価値観も含まれると思う。多くの大人やメディアから伝えられてくる、性差や勉強や仕事に関するものの見方、こうするべきという考え方は、私が子どもの頃は特に今の時代以上に偏りがあったように思う。そして、子ども向けのアニメやマンガ、物語にもそのような傾向はあった。

知らず知らず影響を受けてしまうそれらの中にあって、私があまり影響を吸収しないでいられたのは、振り返ってみると小学校三年頃までだった気がする。

その後、「女の子である自分」が人からどう見られているか、そのイメージを意識するようになって、それに合わないものを自分で辞めていったように思う。

女性が他者のために尽くすこと、犠牲的であることを良しとする考え方を受け入れて、『自分がこうしたい』ということを優先するのを辞め、人が私に持つ期待や印象に応えて成長していった。

はっきり意識してそうしていたわけではないにしろ、自分の親や周囲から認められるためには、そうするのがいい、と感じていた。

自分がどんな物語に影響を受けたとしても、その後の人生で自分の物語を作っていけばいいのだけれど、私はそういう方向に行けなくて、これまで他人の物語ばかりを期待に応えて演じていた気がする。


自分の核につながる物語

では、この「犠牲的」に「頑張る私」ではない、「あらかじめ持っていたもの」に繋がるような、先の著者にとっての「ピッピ」と同じ物語は私にとって何か、と考えてみると、思い出したのは「ミス・ビアンカ」の物語だった。

イギリスの作家マージェリー・シャープが書いたミス・ビアンカの三部作は、ねずみが主人公の冒険物語。学校の図書館にあったこの本を、私は何度も好んで読んでいた。(ディズニーアニメにもなっているけれど、当時は無かったし、アニメより断然、挿絵の美しい原作をお勧めする)

タイトルは覚えていたものの、どんな内容だったのか、すっかり忘れていたので、取り寄せて読んでみて驚いた。

最初に届いたのは二作目の「ミス・ビアンカの物語」で、氷の城に閉じ込められ女王から非人間的な扱いを受け虐待されている少女を、ビアンカと仲間たちが救出するという物語だった。

この囚われている少女の心理描写や救出に来たビアンカとの会話が、1年前までの自分のことと全く重なり、当時とは違う意味で感動し心が揺さぶられた。

虐待する側の人物描写や、その人々に対するビアンカの冷静で辛辣な評価も、子どもの本とは思われず、考えさせられるところがたくさんあった。

ビアンカは、大使の坊ちゃんの部屋に住む白い美しいねずみで、大使一家に大事にされ何不自由なく暮らしている。詩を書くこと、坊ちゃんと一緒に勉強すること、時には大使と共に出かけることが彼女の日常だったのが、ねずみたちの組織する「囚人友の会」の会長になってしまったことから、仲間とともに無実の囚人を救出する冒険に出ることになる。

彼女は静かで穏やかな反面、無謀で勇敢なところもあり、何より利己的なことを嫌う性格。他者のために行動することは厭わないけれど、はっきりと自分の意志を持っている。

今の自分に必要な本と再び出会うことになって、その後届いた一作目の「小さい勇士のものがたり」三作目の「古塔のミス・ビアンカ」も、子どもの頃のように夢中で読んだ。

この物語を読んでいた頃までが、私が他人から認められるかどうかなど考えることなく自由に振舞えていた時期で、その私の姿は物語の中のビアンカに反映されているようだった。

そして驚いたのは、周りにいる人物(あるいはねずみ)たちの性格やビアンカとの関係性が、私自身のさまざまな面や、いま私の身の回りにいる人たち(私の別居と離婚を支えてくれた人たち)に、とても多く当てはまったことだ。

もともと在った私の嗜好や性格も、ビアンカを見て改めて思い出したことは多い。


物語がつくる現実

物語というのは、どのような世界を見たいのか、現実を作っていく種のようなものなのかもしれない。

たかが物語ではある。でも、これまでの自分を考えてみると、無意識に影響されながら、それに近い世界を作り上げていくための人やモノを選んできたように思うのだ。頑張る主人公になるための、頑張らなければいけない状況を。

犠牲になる環境、世話をしなければいけない人、解決しなければいけないトラブル、それらはその物語には必要なものだった。「頑張らないと幸せにはなれない」「犠牲になれば報われるはず」と、私の半生は自分が信じたあらすじ通りに進んできた気がする。

ただ、本やアニメなら区切りのいいところで終わる物語も、人生の場合そうではないし、いつ終わるかもエンディングがどうなるのかも自分にはわからない。頑張っても報われないまま続いていく。

それでも、無意識に続けていくことを自分で辞めさえすれば、終わらせて別の物語を生きようとすることは出来るのだし、私はそうすることにした。


自分の中に埋まっている種

「幸せな」結婚・家族・恋愛・仕事のかたちも、誰かが作った物語といえるし、「美しい」体形や容貌、流行のファッションや色彩も、同じだ。誰もが望んでいるように喧伝されても、本当に自分がそれを望んでいるのか、そのほうがきっと大事なこと。

それを生きて幸せな人もいるし、そうではない人もいる。その物語をなぞって誰かが幸せになっていたとしても、自分がそう感じるかはまた違うし、同じ形を取ったからといって幸せとは限らない。

幸せとは「感じるもの」で、何にそれを感じるかも、その感じ方もひとりひとり全く違うものだからだ。

自分は何が好きだったのか、何を美しいと思うのか、どこに居ると、どんな人と居ると幸せを感じるのか、幼かった私には、それを正しく感じ取ることができていた。たぶん、自分がどのように生きたいのかがわかっていた。ことばにできないだけで。

子どもが大人より未熟だというのは間違いだ。大人にも未熟な部分はあり、子どもにも大人を上回るものはある。

自分のことがわからなくなったら、子どもの頃の自分に訊いてみたらいい。好きだった物語はきっと、私のようにその糸口になるはずだ。












この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?